歴史地震 米子(西伯耆)・山陰の古代史 
古地震
地震計など観測網の整備が整っていない近代的地震観測開始(1884年 明治16年)以前の地震。

 先史地震
   記録に残されていない地震で、遺跡発掘や地質調査などから判明した有史以前の地震。
        (旧石器、縄文、弥生時代)・・・・地震考古学から解明されている。
 歴史地震とは
   近代的な観測機器の無かった時代で、古文書、災害記念碑などの記録に残された過去の地震。
        (古墳時代-1884年)・・・・古文献、碑、地名などから解明 
 地震と地震学  地震の原因とその種類   津波  歴史地震  地震考古学 地震電磁気学  

 先史時代および古代の地震と異常気象  平安時代の地震と異常気象1   歴史的な津波 山陰地方の地震と津波 

地震の日本史―大地は何を語るのか (中公新書)




地震考古学―遺跡が語る地震の歴史 (中公新書)




中世の巨大地震 (歴史文化ライブラリー)




日本人はどんな大地震を経験してきたのか (平凡社新書)




古地震―歴史資料と活断層からさぐる (1982年)




地震と噴火の日本史 (岩波新書 新赤版 (798))










歴史地震の研究方法
歴史地震の研究方法
地震・雷・火事・親父(台風)の言葉が示すように、古代の人々にとって地震は最大の恐怖であったかもしれない。
そのためか、日本は世界で最も地震記録が詳細かつ豊富に残されている国。  

六国史(日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録)、日本紀略、風土記、更級日記、吾妻鏡、太平記、その他の日記文学、各藩史、各郷土史等が参考資料とされる。


古文書の調査 
  歴史地震の研究は古文書の調査から始まる。
古文書は国家の歴史を記した正史から個人の日記など多種多様であり、誤記、誤植、誇張、伝聞によるものなどを含み、その信頼性に疑問点があるものも多く、可能な限り多くの史料を付き合せ、検証する作業が要求される。

火災による焼失、津波による古文書の流失など地震災害自体が過去の記録の喪失につながる場合も少なくない。
例えば房総沖における慶長津波の記録の多くはその後のより甚大な元禄地震津波で失われたとされる。
また宝永地震津波により、尾鷲や土佐久礼八幡宮でも古記録が流失し、これ以前の歴史は不明な点が多い


発震日時
時刻
現代のように時計を持たず厳密な時刻を求めない時代では、発震時刻や地震動の継続時間は記憶や感覚に頼る部分が多く、江戸時代以前の日本のような干支で表現した時刻では分解能が低く2時間程度の不確定性を含むものとなる。
また、近世以前では1日の境が厳密に定められていたわけではなく、平安時代には丑刻と寅刻の間(午前3時頃)を1日の境界としていた。

日付
地震の古記録は何れも元号による年号で、日付も旧暦が用いられている。
太陰暦と太陽暦の違いから、西暦換算では異なる場合もある。
  (例:慶長9年12月16日発生の慶長地震は、西暦換算で1604年ではなく1605年2月3日となる)

また大地震発生を期にしばしば改元が行われたため、年表上では安政元年(1854年)の発生とされる安政東海地震、安政南海地震と呼ばれているものは、古記録には改元前の「嘉永七年」(1854年)と記載されている。

日本では発生年月日の西暦表記換算はグレゴリオ暦で一本化されてきた。
一方で当時、西洋で使用されていた暦は1582年10月4日以前はユリウス暦であった。
グレゴリオ暦とユリウス暦では16世紀末頃では最大10日の差が存在し、慣例上グレゴリオ暦表記であった日本の歴史地震が、ユリウス暦表記の日付のものと共に地震カタログに二重登録されている例がある。


震度分布
  古文書にある記録から、その地域の震度の推定が可能となる。
古文書には「地震」や「小地震」、「大地震」といった記録が見られ、当時はマグニチュードの概念は無く、これは震度の大小を表すものと解釈される。

家屋の倒壊についても「不残潰レ」、「半潰レ」、「事ナシ」などの記録、また具体的に何軒の内、何軒潰れの記録から倒壊率を求めることが可能である。
当時の木造家屋と現代の建物を単純比較することは出来ないが、類似した建物の被害状況を比較することによりその都市における推定震度が求められる。

また、墓石、石灯篭、土塀、石垣などの倒壊、破損状況、地割れ、泥の噴出などの現象、および「大地動震て歩行する事を得ず」などの記録も震度推定の材料となる


震央および震源域
  推定震度分布から、凡その震央が推定される。
また強震域の分布を近代に発生した地震と比較することにより、凡その震源域の推定が可能である。しかし記録の欠損により正しい震央や震源域が不明であるものも少なくない。


津波の規模
  宝永地震や安政地震などでは、地震後暫くして強大な津波が襲来し、その回数、第何波が最大であったか、津波襲来の継続時間など詳細な記録が残る。
また津波の遡上範囲とその標高および家屋の流失範囲、あるいは神社、寺院の石段の浸水の段数などの記録により遡上高を見積もることが可能である。


マグニチュード
  地震計による観測記録を有しない歴史地震のマグニチュードは古文書の記録や発掘調査、地質調査による限定的な情報から推定するより他無い。

1943年、河角廣は震央からの距離 100km における平均震度を MK と定義し、歴史地震においても古文書の被害記録から震度が推定され、規模を表すことが可能であるとした。

機器観測記録の存在しない歴史地震では、古記録から推定される震度分布や津波の高さを、ほぼ同じ震源域と推定される近代に発生した地震の観測記録に基づく断層パラメータから類推して、数値実験を繰り返し最適化された断層モデルが仮定されてモーメントマグニチュードが推定される。
しかし、情報量は乏しく断層モデルを置く位置を少し変えるなどパラメーターを多少変化させるだけでもマグニチュードは大きく変化し、近似の程度も良くなく精度は低い。



注目すべき歴史地震
古墳・飛鳥・奈良時代
  歴史に現れた最初の地震の記述
発生・・・・416年?(19代允恭天皇5年)実際は459年?
震源・・・・遠飛鳥宮付近(近畿地方中部)
規模・・・・不明

津波等の被害
近畿地方中部で地震(ナヰフル)がある。(日本書紀13)  
「日本書記」に「地震」とあるのみ。
被害の記述はないが、わが国の歴史に現れた最初の地震の資料である。


記録に残る日本初の震災。
日時・・・・599年(33代推古天皇7年)
震源・・・・大和国
規模・・・・M7

津波等の被害
家屋倒壊。

補足
この年、大和で地震があり、地震の神を祭る。(日本書紀22)  

白鳳地震
日時・・・・684年(40代天武天皇13年)10月
震源・・・・南海・東海道
規模・・・・
M8.0-8.3

津波等の被害

土佐で津波により大きな被害。田園(約12km²)が海面下へ沈下。
補足
日本最古の津波記録。 死者多数。
南海地震の記録だが地質調査によればほぼ同時期に東海・東南海地震も発生。
山崩れで洪水。諸国の郡官舎、百姓の倉屋、寺塔、神社の多く破壊される。
津波で土佐の田苑50余万が海没。
伊予の温泉が没し出ず。人と六蓄に死傷多数。(日本書紀29)


平安時代
  延暦大噴火
781年 (天応元年) 噴火

800年〜802年(延暦19年)
 旧暦3月14日から4月18日にかけて噴火。

802年(延暦21年)
 1月8日 この噴火により相模国足柄路が一次閉鎖された。
 5月19日から翌年の5月8日までの1年間は、筥荷(箱根)路が迂回路として利用される事になった。

貞観大噴火
864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した、富士山の大規模な噴火活動。

この噴火は、山頂から北西に約10km離れた斜面で発生した大規模な割れ目噴火である。
長尾山ほか2、3のスコリア丘を形成し、膨大な量の溶岩を噴出させた。噴出物の総量は約14億m³にも及び、溶岩流は北西山麓を広く覆い尽くした末に、北麓にあった広大な湖・剗の海(せのうみ)の大半を埋没させた。
江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた宝永大噴火とともに、富士山の噴火災害の特異例として数え上げられ、文献記録に残る富士山噴火のうちで最大規模とも言われている。
なお、この噴火で埋没した剗の海の残片が現在の富士五湖のうちの2つ、西湖と精進湖であり、溶岩流の上に1100年の時を経て再生した森林地帯が青木ヶ原樹海である。

貞観(じょうがん)地震
日時・・・・869年7月9日(7月13日) (貞観11年5月26日夜)
震源・・・・岩手県沖〜福島県沖、または茨城県沖の連動型超巨大地震の可能性も指摘される
規模・・・・M8.3-8.6

津波等の被害 
城下に大津波が押し寄せ1000余人が死亡。(三代実録16)

補足
多賀城損壊。
圧死者あり。また地面の裂け目に埋没する者もあり。 

出雲地震
日時・・・・880(元慶4)年 10月14日
震源・・・・東出雲町
規模・・・・M7.0

津波等の被害
神社、仏寺、官舎、百姓居濾の多くが倒壊。負傷者多数。余震相次ぐ。(三代実録37、38)

万寿の大津波
日時・・・・1023年(万寿3年)
震源・・・・不明
規模・・・・M7.6

津波等の被害
津波の規模は10-20m程度と推定。
石見沖の鴨島が海嘯で海没する。

補足
益田市高津川河口にあった鴨島・鍋島・拍島の陥没および石見の海岸地域の隆起・沈降などの地変が起こり,高津川・益田川下流域および江川下流域に大津波が襲来して大被害を与えた。

永長地震
日時・・・・1096年12月11日(12月17日)(嘉保3年11月24日)
震源・・・・東海・東南海地震
規模・・・・M 8〜8.5

津波等の被害
死者1万人以上と推定。

補足
東大寺の鐘が落下。
伊勢・駿河で津波による大きな被害が発生。


康和地震(南海地震)
日時・・・・1099年2月16日(2月22日)(承徳3年1月24日)
震源・・・・南海トラフ
規模・・・・M 8〜8.5、死者数万と推定。

津波等の被害
土佐で津波により大きな被害。

補足
興福寺の大門、回廊が転倒、塔が破損、西金堂が少破した、天王寺も被害。
東大阪市瓜生遺跡で11世紀末から12世紀にかけての小規模な液状化跡が発見され、この時期に南海地震が発生した証拠とされる。


鎌倉時代
  鎌倉大地震
日時・・・・1293年5月20日(5月27日)(正応6年4月13日)
震源・・・・不明
規模・・・・M 7.1

津波等の被害
建長寺などで火災発生、死者2万3,000人あまり、余震多発。

補足
永仁の関東地震、鎌倉強震地震、永仁鎌倉地震、建長寺地震などさまざまな名で呼ばれている。


室町・安土桃山時代
  正平・康安地震
日時・・・・1361年7月26日(8月3日)(正平16年、康安元年6月24日)
震源・・・・
東海・東南海・南海地震連動説有
規模・・・・
M 8 1〜8.5

津波等の被害

摂津・阿波・土佐で津波により大きな被害。

補足
死者多数。
摂津四天王寺の金堂、奈良唐招提寺、薬師寺、山城東寺など堂塔が破損、倒壊した。
紀伊では湯の峯温泉の湧出が停止し、熊野山の山路や山河の破損が多く、熊野神社の社頭や仮殿が尽く破損した。

明応地震(東海・東南海地震)
日時・・・・1498年(9月11日)(9月20日)(明応7年8月25日)
震源・・・・
規模・・・・M 8.2〜8.4
津波等の被害
死者3万〜4万人以上と推定。伊勢・駿河などで津波により大きな被害。

補足
浜名湖が海と繋がる、鎌倉高徳院の大仏殿が押し流されるなど。
地質調査によればほぼ同時期に南海地震も発生。

天正大地震 (東海東山道地震、飛騨・美濃・近江地震)
日時・・・・1586年1月18日(天正13年11月29日)
震源・・・・
規模・・・・M 7.8〜8.1

津波等の被害
死者多数。飛騨・越中などで山崩れ多発、白川郷で民家数百軒が埋まる。

補足
内ヶ島氏、帰雲城もろとも滅亡。余震が1か月以上続く。

慶長伊予・豊後・伏見地震
以下の3つは連動型地震の可能性がある。

1596年9月1日(文禄5年閏7月9日) 慶長伊予地震(慶長伊予国地震)
M 7.0、寺社倒壊等。同年同月に発生した一連の内陸地震のさきがけとなる。

1596年9月4日(文禄5年閏7月12日) 慶長豊後地震(大分地震)
M 7.0〜7.8、死者710人、地震によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされている。

1596年9月5日(文禄5年閏7月13日) 慶長伏見地震(慶長伏見大地震)
M 7.0〜7.1、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守閣や石垣が損壊、余震が翌年春まで続く。


江戸時代 
  慶長大地震 (けいちょうおおじしん)
発生・・・・1605年2月3日(慶長9年12月16日)
震源・・・・駿河湾から徳島沖まで伸びる南海トラフ
規模・・・・M8前後と推定される。

津波等の被害
津波被害による溺死者は約5,000人(1万人という説もある)だが、地震による陸地の揺れが小さいのが特徴である。

元禄大地震 (げんろくおおじしん)
日時・・・・1703年12月31日 (元禄16年11月23日) 午前2時ごろ
震源・・・・房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、東経139.8度、北緯34.7度の地点にあたる。
規模・・・・マグニチュード8.1と推定されている。

津波等の被害
相模灘から房総半島では津波の被害も発生し、熱海では7m程度の高さと推定される津波が押し寄せ、500戸ほどあった人家のほとんどが流出し、残ったのはわずか10戸程度であったという。

補足

宝永地震 (ほうえい じしん)
日時・・・・1707年10月28日13 - 14時頃 (宝永4年丁亥10月4日壬午の午下刻 - 未上刻)
震源・・・・遠州灘沖から紀伊半島沖(北緯33.2度、東経135.9度。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、かつては記録に残る日本最大級の地震とされてきた
規模・・・・M8.4ないし8.7と推定

補足
地震の49日後に起きた宝永大噴火と共に亥の大変(いのたいへん)と呼ばれる。
安倍川上流の大谷崩はこの地震で大規模に崩壊し、富士川も山崩れのため堰き止められた
家屋倒壊は駿河から土佐まで著しく、被害は出雲、越前、信濃など五畿七道に及ぶ。

宝永大噴火
1707年(宝永4年)に起きた富士山の噴火。
現在までにおける歴史上最後の富士山の噴火となっている。
総噴出量は、約7×108 m3と推定されている。
宝永大噴火は、歴史時代の富士山三大噴火の一つであり、他の二つは平安時代に発生した「延暦の大噴火」と「貞観の大噴火」である。

八重山地震(明和の大津波)
日時・・・・1771年4月24日(明和8年3月10日) 八重山地震
震源・・・・八重山列島近海、深さは不明。
規模・・・・M 7.4〜8.0(Mt 8.5)

津波等の被害
死者約12,000人、家屋流失2,000戸以上。
安房まで津波の到達と記録あり。
石垣島での津波の最大波高は40メートル、最大遡上高は宮良村の85.4メートルとも言われており、日本最高の遡上記録とされる

補足
八重山では死者9400人あまり、生存者18607人で、14の村が流され、住民の3分の1が死亡している。
耕作可能地の多くが塩害の影響をうけ、農作物の生産が低迷。飢饉と疫病などにより明治時代初頭の人口は地震前の1/3程度にまで減少した。

安政南海地震
日時・・・・1854年12月24日
震源・・・・紀伊半島から四国沖
規模・・・・ML8.4 - MW8.5

津波等の被害
最大16.1m。
激しい津波が襲来し、波高は串本で15m、土佐久礼で16.1m、室戸3.3m、宍喰5-6m、土佐種崎で11mに達した。
土佐においては酉上刻(17時頃)に第一波が到達した。
大坂では波高2.5mの津波が安治川や木津川の河口から遡上し、河口付近に碇泊していた数百隻の千石船などの大船が押上げられ橋を破壊し、周辺の家屋や土蔵にも破損や倒壊の被害を及ぼした。

補足
当時は寅の大変(とらのたいへん)と呼ばれた。
南海トラフ沿いの巨大地震は凡そ90年から150年周期で繰り返されており、1946年に発生した昭和南海地震(M=8.0)よりも宝永地震や安政南海地震の震害や津波災害の方がより甚大であったこと、さらに次期東南海地震、東海地震と連動する可能性があることから、21世紀中に起こると予想される地震への対策が求められている。



参考資料
日本地震学会HP 「日本付近のおもな被害地震年代表」  http://www.zisin.jp/modules/pico/index.php?cat_id=100
静岡大学防災総合センターHP 「古代・中世 地震噴火史料データベース」 http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/erice/

「新編日本被害地震総覧 増補改訂版」 (宇佐美龍夫 1996.8 東京大学出版会)
「新訂増補国史大系  日本書紀 前篇」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「新訂増補国史大系  日本書紀 後編」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「日本書紀 上・中・下」 (教育社 1992 山田宗睦訳) 

「新訂増補国史大系  続日本紀 前篇」 (吉川弘文館 1974 黒坂勝美)
「新訂増補国史大系  続日本紀 後篇」 (吉川弘文館 1974 黒坂勝美)

「新訂増補国史大系  日本後紀 」 (吉川弘文館 1974 黒坂勝美)

「訓読日本三代実録」 (臨川書店 1986  武田 祐吉)


気象庁HP 「過去の地震・津波被害-明治以降、我が国で100人以上の死者・行方不明者を出した地震・津波」

Wikipedia「地震の年表」、「歴史地震」

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