出雲国一宮  出雲大社 米子(西伯耆)・山陰の古代史
所在地
島根県出雲市大社町杵築東195
式内社(名神大) 出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社。

 
     
概要
社格・祭神・本殿の変遷等
  社格
式内社(名神大) 出雲国一宮 官幣大社 勅祭社 別表神社。 (参照:社格制度
近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。

祭神
主祭神=大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)  (参照:大国主命とその系譜

祭神の変化
出雲大社の祭神は大国主大神であるが、17世紀以前は祭神が素戔嗚尊であった。
それを示す記録が複数存在する。

  @杵築大社(出雲大社)の由来より
    14世紀に「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く」
  A銅鳥居に刻まれた銘文より
    寛文6年(1666年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」とある。 

  
        神仏習合の影響を受けて、一時祭神は素戔嗚尊であった。

    
本殿の変遷
最初に本殿が建てられた時期は諸説有るが、詳細は不明。
本殿の大きさについても、当初は今より大きかった可能性が有る。
本殿の位置についても時代とともに変遷してきた。


『出雲国風土記と古代遺跡』 勝部昭 山川出版 2005 p31より引用


施設
 

「出雲大社」 (JTBパブリッシング 2012) p32より引用

本殿
現在の本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8丈(およそ24m)。
玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。
本殿内北西には御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られている。
大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。
これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。
天井には7つの雲の絵が描かれている。
 

「出雲大社」 (JTBパブリッシング 2012) p69より引用

拝殿
1519年
  尼子経久が建立。
1953年(昭和28年5月)
  荒垣(あらがき)内にあった古い拝殿・鑽火殿(さんかでん)・庁舎(ちょうのや)が不慮の火のために焼亡。
  原因は餅つき場の残り火の不始末。
  再興の事業に着手し、ただちに高松宮宣仁親王を総裁にいただき、全国の崇敬者の方々の浄財によって
1959年(昭和34年)
  総工費1億1千万円をかけ新拝殿が竣功。

本殿瑞垣内摂社
  大神大后神社(御向社、みむかいのやしろ)−式内社 名神大社(同社坐大神大后神社)。
     大国主の正后・須勢理毘賣命を祀る。
  伊能知比賣神社(天前社、あまさきのやしろ)−式内社(同社坐伊能知比賣神社)。
     大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀る。
  神魂御子神社(筑紫社、つくしのやしろ)−式内社(同社坐神魂御子神社)。
     大国主の妻で宗像三女神の一人、多紀理毘賣命を祀る。
  門神社(もんじんのやしろ)
      廻廊八足門内の両側にあって本殿を守護する宇治神(東)・久多美神(西)を祀る。

本殿瑞垣外
  出雲神社(素鵞社、そがのやしろ) - 式内社。
     父(または祖先)の素戔嗚尊を祀る。本殿の真後ろ、八雲山との間に唯一鎮座する社。
  釜社(かまのやしろ)
     素戔嗚尊の子の宇迦之魂神を祀る。
  氏社(うじのやしろ)
     2つあって、出雲国造家祖神の天穂日命(北)と17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌(南)を祀る。
     御神座は本殿のある東を向いて、西を向いた主祭神に対面するようにしつらえてある。
  十九社(じゅうくしゃ)
     東西に2つあって八百萬神(やおよろずのかみ)を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる。



出雲大社の歴史
由緒より
  日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の始まりであるという。

出雲大社の歴史を語る場合、出雲国造との関係が不可欠となるため、その記載も併せて行う事とする。


飛鳥時代
  659年(斉明天皇5年) 
 出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。
 「この歳、出雲国造 名をもらせり、に命じて、神の宮を修り厳よそはしむ」(『日本書紀』)

 この時の出雲国造は意宇郡熊野大社にいたとされ、神之宮すなわち出雲大社とは熊野大社であるとする説も有る。

698年(文武2年)  
 「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三等身以上の親族を続けて任用することを許す」との詔が発令された。 
 翌日には「諸国の国司は、郡司の選考に偏りがあってはいけない。郡司もその職にあるときは、必ず法の定めに従え。これより以後このことに違背してはならぬ」と諸国の郡司を任命し発令。
 すなわち、筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司の件は特例であった事がわかる。

706年(慶雲三年) 
 出雲国造が意宇郡大領を兼任して出雲郡の杵築へ移住したという説もあり。

708年(和銅元年)
 元明女帝の御代、中央から派遣された正五位下「忌部宿禰子首」が出雲国司に着任。


奈良時代
  716年 
 第26代出雲国造菓安が、「出雲国造神賀詞」を奏上。
 この時に出雲国造は熊野から意宇平野の出雲国府付近(現松江市大庭)に移ったとする説と、杵築(現出雲市)に移ったとする説がある。

721年(養老五年)
  出雲臣廣嶋が第27代出雲国造を継承。
  
733年
  『出雲国風土記』編纂。

796年
  出雲国造の意宇郡大領の連任という政治関与が終わり、以後、出雲国造は祭祀にのみ関わる事になった。
  この時に出雲国造は意宇平野の出雲国府付近(現松江市大庭)から杵築に移ったとする説がある。


平安時代
833年
  「出雲国造神賀詞」奏上の終結。

867年(貞観9年) 神階奉授
  神階はに正二位まで昇った。

900年頃
  出雲国造が熊野大社から杵築大社への移住もこの頃である可能性がある。
  それ以前の出雲国造館の所在は明らかではないが、神魂神社参道付近と考えられている。
  この国造の移動に伴い杵築大社の本殿に大国主に代えてスサノオが祀られる事となる。

927年 『延喜式神名帳』
  「出雲国出雲  杵築大社」と記載され、名神大社に列している。

970年(天徳元年)頃  『口遊』
  出雲大社の高層神殿が日本一の建物として認識される。
  源為憲(みなもとのためのり)作とされる『口遊』に雲太・和二・京三の記述。

1031年(長元4年八月)
  杵築大社神殿が倒壊する。 【百錬抄】
  藤原経任より無風顛倒の報告がある。 【左経記】

1061年(康平4年11月)
   杵築大社社殿顛倒 【百錬抄】

1062年(康平5年4月) 仮殿に遷宮する。 【千家古文書】

1067年(治暦3年2月) 正殿を造営し遷宮。 【千家古文書】

1095年(嘉保2年8月)
  杵築大社が鳴動する。 【中右記】

1109年(天仁2年)
  杵築大社社殿顛倒。


鎌倉・室町時代
  1235年 
  社殿が倒れる。

1248年
  正殿遷宮(2000年の発掘調査で柱跡検出)

1270年
  杵築社が火災に遭うが、御神体は焼失を免れた。以後、規模縮小。

1333年(元弘3年3月)
 「後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨」「王道再興綸旨」の二通の書が杵築大社に後醍醐天皇から送られてくる。 【出雲大社文書】
 後醍醐天皇が出雲大社に祀られている二振りの神剣の内いずれかを三種の神器の天叢雲剣の代わりに差し出すように命じたもの。
  「王道再興綸旨」には後醍醐の不退転の決意が述べられており武力をもって天下を平定するという意思表示であると同時に、出雲国内を後醍醐側に組み入れようとする目的があった。
  この綸旨に従い出雲国守護の塩冶高貞をはじめ出雲国一帯が後醍醐の下につく。
 塩冶氏は出雲大社の神官家とも縁戚を結んでおり出雲大社も後醍醐天皇に見方することとなる。

1344年(康永三年六月)
  出雲国造が千家家と北島家に分立する。 【千家家文書】


江戸時代
  1609年(慶長14年)
  豊臣秀頼、松江藩主堀尾吉晴により、仮殿遷宮。

1667年(寛文7年)
  江戸幕府の援助のもと、松江藩主松平直政により正殿遷宮。
  なお、江戸時代には社領五千石を有していた。

1744年(延享元年)
  現在の本殿が作られた(第25回)。高さは8丈(およそ24m)


明治以降
  1871年(明治4年)
  古代より杵築大社(きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、出雲大社と改称した。
  同年、官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった

補足−1
近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。


出雲大社と関連する寺社など
補足1:出雲大社と鰐淵寺 
  鰐淵寺 
伝承によれば、594年(推古2年)信濃国の智春上人(ちしゅんしょうにん)が遊化して出雲市の旅伏山(たぶしさん)に着き、推古天皇の眼の病を治すために当地の浮浪の滝に祈ったところ平癒されたので、その報賽として建立された勅願寺であるという。

ここには弁慶伝説がある。
1151年に松江に生まれ、18歳から3年間鰐淵寺で修行し、その後、姫路、比叡山へ渡り、源義経の家来になって壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後、この鰐淵寺に戻ったと言われている。
この寺の釣鐘はその弁慶が大山寺から一夜でここへ持ち帰ったものだとの伝承がある。

出雲大社と鰐淵寺 
中世の出雲大社は、神仏習合の影響を受けて、一時祭神は素戔嗚尊であった。
それは鰐淵寺を中心とした縁起(いわゆる中世出雲神話)に、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、それが一般に広まり出雲大社までが祭神を素戔嗚尊とするようになったとされる。 (しまねの古代文化第十一号、島根県古代センター)


補足2:出雲大社と出雲国庁

出雲国庁
出雲国国府跡は、松江市の南東6キロメートルに所に開けた意宇平野に位置する。
国庁跡は、『出雲国風土記』に記述があり、意宇平野内に所在していたことは古くから知られていたが、具体的な場所が分からず、推定地がいくつか上がっていた。
その後、江戸時代に書かれた大草村検地帳に字名「こくてう」が発見され、現在の字竹ノ後(館の後の意味)辺りと考えられるようになった。
出雲国庁のそばを意宇川が流れ、その上流に熊野大社がある。




出雲大社と出雲国庁
出雲国造は平安時代初期(800年頃)までは出雲国庁近くにあった神魂神社周辺に国造館を構えていたと言われている。
796年、出雲国造の意宇郡大領の連任という政治関与が終わり、以後、出雲国造は祭祀にのみ関わる事になった。
この時に出雲国造は意宇平野から杵築に移ったとする説がある。


補足3:出雲大社と意宇六社
  意宇六社
意宇郡にある神社のうち下記の六社を「意宇六社」といい、「六社さん」とも呼ばれて崇敬されている。
この六社を巡拝する「六社参り」という行事が江戸時代以前より行われている。

1:熊野大社(松江市八雲町)・・・一宮 主祭神=熊野大神櫛御気野命
 常に杵築大社(出雲大社)より神階が上位にあった。神階=正二位(貞観9年)
 古代には熊野大社の方が上位で一宮とされていたが、中世に逆転し、出雲大社が一宮とされるようになった。
 二宮以下は存在しないとみられるが、佐太神社(松江市鹿島町佐陀宮内)を二宮とする説がある。
 
 「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」とし、素戔嗚尊の別名であるとしている。
 本来、櫛御気野命は素戔嗚尊とは無関係であったものとみられるが、先代旧事本紀・神代本紀には「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、かなり古い時代から櫛御気野命が素戔嗚尊と同一視されるようになったと考えられる。

2:六所神社(松江市大草町)・・・総社
 令制国の総社の中には「六所神社(六所宮)」という社名のものがいくつかある。
 これはその国の一宮から六宮までの祭神を勧請して総社としたことによるものである。
 このことから、歴史学者吉田東伍は、「六所」とは「六か所」という意味だけではなく、管内の神社を登録・管理し統括する「録所」の意味でもあるとしている。
 民俗学者中山太郎は、「録所」は墓地の意味であるという説を唱えている。

 八重垣神社とともに『延喜式神名帳』出雲国意宇郡に記載された「佐久佐神社」の論社とされる。
 明治5年に八重垣神社が式内社佐久佐神社として認定され、当社は6柱の神を祀る六所神社として結論付けられたがその後も論争が続いている

3:揖夜神社(松江市東出雲町)
 『日本書紀』斉明天皇5年の条に「又、狗、死人の手臂を言屋社に噛み置けり」とある。
 この事件によって、斉明天皇が出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。
 「言屋社」、『出雲国風土記』意宇郡の条の在神祇官社「伊布夜社」、延喜式神名帳の出雲国意宇郡の「揖屋神社」に比定される。

4:神魂神社(松江市大庭町) 主祭神=伊弉冊大神 伊弉諾大神
 出曇国府に近い古代出雲の中心地であり、社伝では、天穂日命の子孫が出雲国造として25代まで当社に奉仕したという。
 出雲国造家は現在は出雲大社の宮司家であるが、現在でも国造家の代替わりのときの「神火相続式」、「古伝新嘗祭」は、明治初年までは当社に参向して行われていた。

5:八重垣神社(松江市佐草町)
 素盞嗚尊と櫛稲田姫を主祭神とし、大己貴命、および『出雲国風土記』意宇郡大草郷条で須佐乎命の子として記載される青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこ)を配祀する。
 佐久佐神社という名前は延喜式神名帳に記載されているが、式内・佐久佐神社は当社の他、同市大草町の六所神社も論社となっている。
 元慶2年(878年)に正五位上の神階を授かった。

6:真名井神社(松江市山代町)
 『出雲国風土記』意宇郡条の神名樋野に比定される茶臼山の南東に鎮座する。
 当社の祭祀は神魂神社の社家である秋上氏が神主と別火を兼ね、社殿も両社を同時期に造営していたという。

出雲大社と意宇六社
現在の出雲大社はその規模や大きさに於いて群を抜いているが、当初から今のような状況にあったとは考えにくい。
熊野大社、揖屋神社をはじめとする意宇六社の存在はそれを物語るものであると思われる。


出雲大社の神事
  出雲大社で行われる祭祀は、年間72度に及ぶという。
特に旧暦10月は、全国の八百万の神々が出雲の国に集まる月となる。
他の土地では神々が留守になるので神無月というが、出雲では神在月と呼ばれている。
神々が集う出雲の各神社では「神迎祭(かみむかえさい)」に始まり、「神在祭(かみありさい)」そして、全国に神々をお見送りする「神等去出祭(からさでさい)」が行われる。


神迎祭(かみむかえさい)
時期
 旧暦10月10日 夜
 出雲大社に八百万神々が集まって大国主命の本で会議をする。

神迎神事
出雲大社の西の国譲り神話の舞台でもある稲佐の浜で神迎神事が行われる。
夕刻7時、浜で御神火が焚かれ、注連縄が張り巡らされた斎場の中に神籬(ひもろぎ)が2本、傍らに神々の先導役となる龍蛇神が海に向かって配置される。
千家権宮司が神々を迎える祝詞を読み上げ、神の依代となる神籬(ひもろぎ)と呼ばれるサカキを白い布で覆う。
龍蛇神の先導の元、出雲大社への「神迎の道」を延々と行列し、この後、出雲大社神楽殿において国造(こくそう)以下全祀職の奉仕により「神迎祭」が執り行われる。
これが終わると、ようやく神々は旅(宿)社である東西の十九社に鎮まられる。
神々は7日間、向こう1年間の男女の縁結びなどを話し合う「神議(かみはかり)」を行うとされる。


神在祭(かみありさい)(御忌祭)
旧暦10月11日−17日

全国の神々は旧暦10月11日から17日まで7日間、出雲の地で神事(幽業、かみごと)、すなわち人には予めそれとは知ることのできない人生諸般の事などを神議り(かむはかり)にかけて決められるといわれている。
男女の結びもこのときの神議りであるという。

祭事
神々が滞在される7日間、稲佐の浜に程近い、出雲大社西方540mに位置する出雲大社の摂社「上の宮(仮宮)」で、縁結びや来年の収穫など諸事について神議りが行われる。
また、御宿社となる出雲大社御本殿の両側にある「十九社(じゅうくしゃ)」でも連日お祭りが行われる。
この祭事期間、神々の会議や宿泊に粗相があってはならぬというので、土地の人は歌舞を設けず楽器を張らず、第宅(ていたく)を営まず(家を建築しないこと)、ひたすら静粛を保つことを旨とするので、「御忌祭(おいみさい)」ともいわれている。

補足1:
また、神在祭は本来、旧暦10月11日から25日までの15日間行われていたとの説もあり、11日から17日までを上忌、18 日から25日までを下忌と呼んで、出雲大社では上忌が残り、佐太神社には下忌が残ったのだともいわれます。

補足2:神無月の例外
諏訪大社
伝承によれば、かつて諏訪大社の祭神であった「諏訪明神」があまりにも大きな体であったため、それに驚いた出雲に集まった神々が、気遣って「諏訪明神に限っては、出雲にわざわざ出向かずとも良い」ということになり、神無月にも諏訪大社に神が有ることから神在月とされている。

鍵取明神
能登では、10月に神々が出雲に集っている間にも、宝達志水町の志乎神社の神だけはこの地にとどまり能登を守護するという。
そのためこの神社は「鍵取明神」と呼ばれる。なお、志乎神社は素盞嗚尊・大国主命・建御名方神を祭神とするが、能登にとどまるのは建御名方神である。


神等去出祭(からさでさい)
時期
旧暦10月17日

祭事
夕刻4時、出雲大社境内にある東西の十九社にあった神籬が絹垣に囲まれて拝殿に移動される。
拝殿の祭壇に2本の神籬、龍蛇、餅が供えられ祝詞が奏上される。
その後、1人の神官が本殿楼門に向かい門の扉を三度叩きつつ「お立ち〜、お立ち〜」と唱えます。
この瞬間に神々は神籬を離れ出雲大社を去られる。

補足1:
出雲大社の他に、日御碕神社や朝山神社、万九千神社、神原神社、神魂神社、多賀神社、佐太神社で神在祭があり、それが終わると万九千神社から神々はそれぞれの国に還られる。

補足2:
出雲大社では、旧暦10月17日と26日の2回にわたり、神々をお送りする神等去出祭(からさでさい)が行われる。
17日は大社からお立ちになる日、26日は出雲の国を去り給う日ということです。


神幸祭(身逃神事)
時期
旧暦7月4日−5日
明治18年以前は、陰暦7月4日深更に身逃神事、翌5日に爪剥祭が行われたが、今は8月14、15日に行われている。

神事
この祭祀は櫛八玉神の末裔である別火氏(べっかし・大社家上官)が、大国主の神幸にあたって、大社の聖火で調理した斎食をし、稲佐の浜の海で身を清めた後、8月14日の身逃神事のための「道見(下検分)」を前夜行う。
道見は禰宜らが献?物を持ち湊社(みなとのやしろ・祭神は櫛八玉神)と赤人社(あかひとしゃ・祭神は別火氏の祖)へ詣で白幣、洗米を供えて拝礼する。
次に、稲佐の浜の塩塩掻(しおかきじま)で四方を拝し、前二社と同じ祭事を行い斎館に帰る。
翌十四日の午前一時禰宜(当日は大国主の神幸の供奉である)は狩衣を着け、右に青竹の杖を左に真菰で造った苞(しぼ)と火縄筒を持ち、素足に足半(あしなか)草履の出で立ちで、大社本殿の大前で祝詞を奏し、その後前夜の道見の通りに二社に行き、塩掻島で塩を掻く。
帰路出雲国造館大社本殿に向いて設けた斎場を拝し、本殿大前に帰り再拝拍手して神事は終了する。



補足1:神火相続式(火継ぎ神事)
火継式
出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれる。

内容
前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなくただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)を携えて、熊野大社に参向する。
そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。


補足2:出雲国造の葬儀
祭主(千家)が亡なると、その死骸に化粧を施し、生きているように見せ、柱にもたせかけて、前に膳を置く。
新国造になる人は昼夜兼行して出雲の熊野神社まで行き、そこで火切杵と火切臼で神火を熾し、ご飯を炊いて歯固めの儀式を行なって出雲に帰る。
その後、旧国造は裏門から出されて、出雲市の東南にあった菱根の池の中に赤い牛の背中に括りつけられ、沈められる。



出雲大社に関する伝承
創建伝承より 
大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)

高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)

所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)

神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)

垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。
奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)




本殿の大きさ
  本殿大きさに関する伝説
平安時代(970年)に源為憲によって作られた貴族子弟の為の教科書『口遊』数え歌に歌われている「雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎」を元にしている。
かつての本殿は現在8丈(24m)よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられる。

   


補足1:参考リンク 出雲大社復元CG・・・有限会社 友森工業様の、すばらしいCGです。
 有限会社 友森工業 〒684-0046鳥取県境港市竹内団地220
 http://www.tomomori-kogyo.co.jp/iz-taisya/izumo-taisya-cg.htm


参拝方法 (二拝四拍手一拝)
神社での参拝方法は、二拝二柏手一拝を基本とする。
しかし、出雲大社(島根県)、宇佐神宮((大分県)、彌彦神社(新潟県)、空気神社(くうきじんじゃ山形県)などは二拝四拍手一拝を参拝方法としている。
また伊勢神宮は8回であり、4回以上手を打つものは「長拍手・長手」と呼ばれる。
これについて各種説がある。

@出雲大社からの見解
4拍手をする理由は、当社で最も大きな祭典は5月14日の例祭(勅祭)で、この時には8拍手をいたします。
数字の「8」は古くより無限の数を意味する数字で、8拍手は神様に対し限りない拍手をもってお讃えする作法です。
ただし、8拍手は年に1度の例祭(勅祭)の時のみの作法としています。平素、日常的には半分の4拍手で神様をお讃えする4拍手の作法としています。

A梅原猛氏、井沢元彦氏らによる出雲大社は怨霊を鎮める神社であるという説
宇佐八幡宮は出雲大社と同じようにタタル神であり、その霊を鎮めるために建立されたのではないかと考える。
なぜなら出雲大社と同じ【二礼四拍手一拝】という、拝礼作法は、全国で限られる。
「四拍手」をする理由について、それはオオクニヌシが「殺害された神」であり、そのタタリを恐れたために、「死拍手しはくしゅ」で封じ込めているのだと考察した。

B国家体制による統一からの逸脱とする説
明治以前は各神社がばらばらな作法をしていた。
二拍手になったのは明治時代に政府が「神社祭式」を発布して神社が国家管理に入ってから後、作法を統一していったためとする。
国家神道絶対主義とそれと相容れなかった古式神社神道主義の違いの現れだとされるが、出雲大社、宇佐神宮、弥彦神社がそうなった理由もまた不明

補足1:言霊思想と「し」
「四」が「死」に通じるとして、出雲大社は「大国主という怨霊を封じ込める為の神社」であるという説がある。
古代における「四」の読み方としては「し」ではなく「よ」または「よん」と読んでいた。
すなわち、「ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、と」であった
古代においての読み方の上からは、「し」イコール「死」はありえないという。

補足2:四拍手について
神に対し四拝ま たは四拍手することは、日本古来の一般の風習であり、出雲大社に限ったこと ではない。
四拍手が古礼であることは、『儀式』巻三践祚大嘗祭儀に、「跪いて手を拍つこと四度」とある事からも理解される。
よって今日、出雲大社で四拍手を行うとすれば、それは旧儀を忠実に伝えて いるだけのことである。


祭神の配置 (神座が横を向いている)

一般の神社においては、多くは御神座の向きは社殿の向きと一致している。
しかし、 出雲大社では社殿は南向きであるのに対して、御神座は西向きである。
大国主命は参拝者側から見ると横を向いた格好になり、参拝者の正面には「客座五神」が正面(参拝者の方)を向いて鎮座している。
したがって、参拝者は「客座五神」を拝んでいることにもなる。
客座五神とは、古事記において神々の一番最初に登場する「別天神」と同一で、森羅万象全ての元でもある。
  天之御中主神
  高御産巣立日
  神神産巣立日神
  宇麻志阿斯訶備比古遅神
  天之常立神

この神座の配置から「客座五神」こそが参拝をうける対象であると考え、大国主はいわば「囚われの神」であるとして、怨霊説が語られる事にもなった。
しかし見方を変えれば、大国主命の正面に居並ぶ五神は 大国主命によって祭祀されている、あるいは支配されているという形にもとれる。
また、藤原氏と縁の深い鹿島神宮の神座の配置も大社造の神座に似ていることから、神座の向きから大国主が怨霊であると理解するには無理があるかもしれない。

注目すべきは出雲国造が直接祭祀する「神魂神社」の御祭神である伊弉諾尊も参拝者に対して横向きで鎮座している。
ただしこちらの御祭神伊弉諾尊は出雲大社とは逆で東を向いている。

また、本殿真後ろには素鵞社があり、大国主命の父(または祖先)の素戔嗚尊を祀られている。
従って、本殿正面で行う参拝は、実際には素戔嗚尊の事を拝んでいるとも考えられる。

     
 

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