伯耆(ほうき)国
伯耆国(ほうきのくに)とは
伯耆国は、現在の鳥取県中部及び西部にあたる。
伯州と呼ぶこともある。
古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多く、出雲とあわせて雲伯地方とも呼ばれる。
主に現在の鳥取県西部域を指す「西伯耆」と中部域を指す「東伯耆」に分けられ、双方は若干、方言や文化などが異なっている。
延喜式での格は上国。


沿革
弥生以前
四隅突出型墳丘墓が築かれており、出雲国風土記にも当地に聳え立つ霊峰伯耆大山の逸話も出てくることから出雲の文化圏と考えられている。

弥生時代
東部出雲と同様、鉄器の製造が盛んであり、これらの地方の鉄が大和政権の原動力になったとの見方がある。
登場する最古の文献は、古事記であり伊邪那美神の埋葬地「出雲と伯耆の堺の比婆の山」であり、現在の島根県安来市と鳥取県米子市の県境近くに比定される。

古墳時代以降
律令の世になると伯耆国造がいた領域に、7世紀に伯耆国を設置した。
鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、日本最古の刀匠の一人、大原安綱を輩出した。


補足:伯耆国地名の由来
地名の由来については諸説在るが確かな事は不明。

@「諸国名義考」(江戸時代後期)より
ある書物に書かれていることとして、稲田姫が、ヤマタノオロチに呑まれそうになって山の中に逃げた。
母親が遅れてきたので「母来ませ、母来ませ」と呼んだ。
そこで「母来(ははき)の国」と名付けられた。」との記述有り。
      反証:古語で母は「パパ」と発音した。
          古語で「はは」と発音する言葉は「蛇」である。
          上古において蛇は、「はは」、「はば」、「はぶ」などと言われていた。

A「伯耆民談記」(江戸時代)の地誌より
海から白い亀がやってきて縁起がいいということから、ハハキを「白亀」にちなんで「伯耆」と改めたという記述あり。

B古語より
古代の言葉の研究から見ていくと、「ハ」は何かの端っこのこと、「ハキ」は崖を表していて、「崖の端」という意味になることから。

Cたたらの伝承より
たたら製鉄などで火勢を強くするために空気を送るフイゴを意味する「ハフキ」が起源であるという説。


律令制下における郡 (6郡 48郷)
河村郡(加波无良 かはむらぐん)
概要
三朝町、湯梨浜町(東郷町・泊村・羽合町)、および倉吉市の一部。
明治29年久米郡、八橋郡と合併して東伯郡となった。

=8
  1:笏賀(くつか・くつが)郷
  2:舎人(とねり)郷
  3:多駄(ただ)郷→東郷(1103年以前に改称)
  4:埴見(はなみ)郷
  5:日下(くさかべ)郷→西郷(1103年以前に改称)
  6:河村郷
  7:竹田郷
  8:三朝(みささ)郷

郡家
河村郷(一説に多駄郷とも)に置かれ、笏賀郷付近には笏賀駅(『延喜式』)があった。

補足
このうち、多駄郷は少なくとも平安時代の康和5年(1103年)以前に東郷と改称された。
また、これとほぼ同時期に日下郷の南部も西郷と改められた。

地名由来
川沿いの村、または川漁を生業とする民の村の意とする説がある。

久米郡(くめぐん)
概要
倉吉市、北栄町の一部、関金町

=10
  1:八代郷          
  2:立縫(たてぬい)郷
  3:山守郷
  4:大鴨郷
  5:小鴨(おがも)郷
  6:勝部郷
  7:久米郷
  8:神代郷
  9:下神(しもつわ)郷
 10:上神(かずわ)郷

郡家
久米郷には郡家が置かれたと考えられている。

補足
地名由来
 @久米(くめ)部が居住したことに由来する。
   この久米部は、肥(クマ)で肥人すなわち熟化した隼人を組織化し大伴氏の指揮下に置かれた軍事集団とする
   説がある。
 Aクミ(入り組んだところ)、クルメキ(川などの転回するところ)」が転じてクルメ、クメとなつたとする説がある。

八橋郡(夜波志 やはし)(やばせぐん)
概要
琴浦町、北栄町の一部、大山町の一部

=6
  1:方見(かたみ)郷
  2:由良(ゆら)郷
  3:荒木郷
  4:古布(こう)郷
  5:八橋(やはし)郷
  6:箆津(のつ)郷

郡家・駅
延喜式に見える清水駅は同郡内(現在の琴浦町八橋付近)に存在したとされる。

補足
夜波志(やはし)と訓じ、中世以降は「やばせ」と呼ばれたとされる。

地名由来
 @ヤ(海岸の湿地)・ハシ(端。または砂丘の段=階(はし))」から
 Aヤ(数多い)・ハシ(砂丘の段=階(はし))」からという説がある。

汗入(安世利 あせり)郡 (あせりぐん)
概要
米子市、淀江町、大山町の一部  下記の6郷が記されている。

=6
  1:束積(つかづみ)郷
  2:汗入(あせり)郷
  3:奈和(なわ)郷
  4:尺度(さかと)郷
  5:高住(たかずみ)郷
  6:新井(にい)郷

郡家
郡の郡家は汗入郷に置かれたと見られるが、現在では汗入郷の遺称地が存在しておらず、確定までには至っていない。
 (そもそも汗入郷の位置や郷域自体が確定していない)
そのため、所在地については旧中山町逢坂、旧名和町名和(いずれも現・大山町)、旧淀江町福岡(現・米子市)など諸説がある。

補足
地名由来
 @アセ(畦)・リ(裡、うち)」で水田に関係する地名
 Aアセはアサ(低湿地、崖地)」の転、「セリ(せり出した地)」で、海岸、平野などに山が迫つた地の称との説がある。

會見郡(安不美 あふみ あいみ) 会見郡(あいみぐん)
概要
米子市の境港側、境港市、南部町、大山町の一部。

=12
  日下(くさか)郷
  細見(ほそみ)郷
  美濃(みの)郷・・・・現在の佐陀付近
  安曇(あずみ)郷
  巨勢(こせ)郷・・・・現在の五千石付近
  蚊屋(かや)郷・・・・現在の日吉津、箕蚊屋付近
  天万(てま)郷
  千太(ちた)郷
  会見郷
  星川郷
  鴨部郷
  半生(はにゅう)郷

郡家

補足
伯耆国風土記逸文、和名抄などでは相見と記され、「あふみ」(おうみ)の訓が付けられている。
古代から中世にかけては会見もしくは相見と両方の表記が存在し、会見(あいみ)の表記に統一されたのは近世以降。

地名由来
 @イザナギとイザナミの再会に関して、古事記に「妹伊邪那美命を相見むと欲ひて」とある。
   この地方にイザナギがイザナミに会いに行ったという伝説があり、この町の名前が付いたとする説。
 A海湾を抱擁する地であって、「大海」の意から会見としたする説。

日野郡(比乃 ひの) (ひのぐん)
概要
伯耆町、日野町、日南町

=6
  1:葉侶(よころ・はろ)郷
  2:野上郷
  3:神戸(かんべ)郷
  4:阿太郷
  5:武庫(むこ)郷
  6:日野郷

郡家

補足
地名由来
 @出雲国風土記』大原郡斐伊郷の条に「樋速日子命がここに住んだので「樋(ひ)」という」とあり、出雲・伯耆
   両国境の鳥髪山(船通山)付近を源とし、出雲国を流れるのが斐伊川、伯耆国を流れるのが日野川で
   あることから当地を日野とする説。
 A山間の最奥部にあることからヒナ(鄙)の意により、転じて日野になったとする説。
 B日当たりの良い土地の意から。
 C烽火を置いた野から、火野、日野となったとする説。
 D日野神社の所在地、または日野氏の居住地などの説がある。


国府・一宮など
  国府
伯耆国の国府は久米郡にあった。
遺跡は現在の倉吉市国府で見つかっている。

式内社
延喜式神名帳には以下の小社6座6社が記載されている。
   河村郡  倭文(しとり)神社−東伯郡湯梨浜町宮内
   河村郡  波波伎(ははき)神社−倉吉市福庭
   久米郡  倭文神社−倉吉市志津
   久米郡  国坂神社−東伯郡北栄町国坂
   会見郡  胸形神社−米子市宗像
   会見郡  大神山神社−米子市尾高

一宮
   一宮は河村郡の倭文神社
   二宮は大神山神社あるいは波波伎神社
   三宮は久米郡の倭文神社

総社
   国庁裏神社(倉吉市国府)である。



因幡(いなば)国
因幡国とは
鳥取県東部にあたる。因州と呼ぶこともある。
延喜式での格は上国、中国。
和妙抄記載の

沿革
古代・平安・鎌倉
古くは稲場、その後に稲葉と書き、稲葉国造の領域であった。
7世紀に因幡国が成立した。

室町時代
因幡山名氏の一族が因幡国の守護を務めたが、周辺の但馬や伯耆の山名家と比べて、守護家の支配基盤は脆弱であった。
そのため、但馬惣領家が家督争いに介入するなど政情が不安定な部分もあった。
また、八上・八東といった因幡南部には独立性の高い奉公衆系の国人が多数存在しており、これらの国人の一部は文明年間〜長享年間にかけて2回に渡る反乱を起こしている。(毛利次郎の乱)

戦国時代
因幡山名氏の支配が続くが、因幡山名氏の勢力が内紛などで衰えたため、因幡は織田・毛利の争乱の地となる。
また、毛利氏と手を結んだ武田高信が勢力を拡大したが、一国を支配する大名までには成長しきれなかった。
羽柴秀吉により鳥取城が陥落してからは因幡一国は織田氏の支配下に置かれた。

江戸時代
初期は複数の大名に分割されたが、その後は明治維新まで池田氏が鳥取藩32万石の大名として因幡を支配した。


律令制下における郡 (7郡 50郷) (平安時代に8郡 55郷)
巨濃郡(こののこおり)(いわいぐん)
概要
現在の岩美町と鳥取市の一部。

=6
  1:蒲生(がもう)郷         
  2:大野郷
  3:宇治郷
  4:日野郷
  5:石井(いわい)郷
  6:高野郷

郡家
郡家の所在地は現在の岩美町岩井とする説や同町新井とする説がある。

補足
郡名の変更については鎌倉時代に成立した『拾芥抄』には「石井郡」と記されており、郡名の改称時期を鎌倉期とする説があるが、これを疑問視する説も根強い。
通説では中世にかけて岩井庄周辺が国境の重要地域として注目され、「岩井」の表現が郡全体の呼び名として広まったことがきっかけであるとされる。
少なくとも寛永10年(1633年)以前には郡名の改称と郡域の変更がなされ、服部庄(現・鳥取市福部町)が編入された。
元禄14年(1701年)には郡名が石井より岩井へ改められた。
明治29年3月29日 邑美郡・法美郡と合併して岩美郡となった。

法美郡(ほうみぐん)
概要
国府(因幡国庁跡)は稲羽郷に所在した。

=6
  1:大草(おおかや)郷         
  2:罵城(とき)郷
  3:広西(ひろせ)郷
  4:津井(つのい)郷
  5:稲羽郷
  6:服部(はとり)郷 

郡家
郡家は稲羽郷内に置かれたと見られるほか、『延喜式』に見える佐尉(さい)駅も同郡内に置かれたとされる。
中世にかけては因幡守護・山名氏の守護所が置かれたとされ、長い間に渡って因幡国の中心地として栄えた。

補足
中世にかけては因幡守護・山名氏の守護所が置かれたとされ、長い間に渡って因幡国の中心地として栄えた。
1896年(明治29年)3月29日 邑美郡・岩井郡と合併して岩美郡となった。

八上郡(やがみぐん)
概要
因幡国内で最大規模の郡であった。

=12
  1:若桜郷         
  2:丹比(たじひ)郷
  3:刑部郷
  4:亘理(わたり)郷
  5:日部(くさかべ)郷
  6:私部(きさいべ・きさいちべ)郷
  7:土師郷
  8:大江郷
  9:散岐郷
 10:佐井郷
 11:石田郷 
 12:曳田(ひけた)郷

郡家
郡家の所在地は万代寺遺跡(現・八頭町)とされるほか、同町福井にある西ノ岡遺跡も一時期、郡家であったとする説もある。
延喜式などに見える莫男(まくなむ)駅は八上郡家付近に所在したと考えられる。

補足
平安時代末期に同郡東部が八東郡として分離し、『和名抄』にみえる土師、大江、散岐、佐井、石田、曳田の6郷が中世以降の八上郡を構成した。

八東郡(はっとうぐん)
概要
平安時代末期に、私部(きさいべ・きさいちべ)、刑部、曰理(わたり)、日部(くさかべ)、丹比(たじひ)、若桜の6郷が八上郡より分離し、成立した。

=6
  1:私部(きさいべ・きさいちべ)郷         
  2:刑部郷
  3:日部(くさかべ)郷
  4:丹比(たじひ)郷
  5:曰理(わたり)郷
  6:若桜郷 

郡家

補足
1889年(明治22年)10月1日 町村制施行。
  若桜、郡家、八頭、八頭
1896年(明治29年)3月29日 八上郡・智頭郡と合併して八頭郡となった。

智頭郡(ちずぐん)
概要

=5
  1:美成(みなり)郷         
  2:佐治(さじ)郷
  3:土師郷
  4:日部(くさかべ)郷
  5:三田(みた)郷 

郡家
郡家は三田郷(現・智頭町智頭付近)に置かれ、延喜式・日本後紀などに見える道俣(みちまた)駅も郡家付近に設置されたものと推測されている。

補足
具体的な時期は不明だが、中世まで現在の鳥取市用瀬町鷹狩周辺は八上郡散岐郷に属していたが、近世以降になって智頭郡に編入された。
明治22年10月1日 町村制施行
  智頭町、用瀬町、佐治村

邑美郡(おうみぐん)
概要

=5
  1:美和郷         
  2:古市郷
  3:品治(ほんじ)郷
  4:鳥取郷
  5:邑美郷 
 
郡家
郡家は美和郷(一説に邑美郷)に置かれたとされ、因幡国の有力豪族である伊福部氏が代々郡司を務めた。

補足
延暦3年(784年)に成立したとされる『伊福部臣古志』によれば、同郡は因幡国最初の郡であった水依評が分割されて成立したものであるという。

1889年(明治22年)10月1日市制施行
  鳥取市が成立し邑美郡から分立した。
1896年(明治29年)3月29日 法美郡・岩井郡と合併して岩美郡となった。

高草郡(たかくさぐん)
概要

=8
  1:神戸(かんべ)郷         
  2:倭文(しとり)郷
  3:味野郷
  4:古海郷
  5:能美(のみ)郷
  6:布勢郷
  7:野坂郷
  8:刑部(おさかべ)郷 

郡家
郡家は古海郷に所在していたとされ、山陰道の敷見(しくみ)駅が設けられていた。

補足
当郡一帯は大化の改新以前より、因幡国の有力な在地首長一族であった因幡国造氏の本拠地が置かれていた。
延喜式神名帳には郡内の神社7座が記載され、薬師寺、国隆寺などの寺院も存在していた。

天平勝宝8年(756年)には東大寺領高庭荘が成立、地元の豪族である国造難磐の協力を得て、開墾が進められた。
延暦3年(784年)に成立したとされる伊福部臣古志によれば、646年に伊福部都牟自が「水依評」の督に任ぜられたとあり、658年には「始壊水依評、作高草郡」と記されている。
一説に水依評が高草郡となったとも言われるが、新編鳥取市史などでは水依評は法美郡・邑美郡に分割され、次いで高草郡が成立したとする説を採っている。
また、国府町誌によれば、郡の成立年代については、意図的に縁起の良い年を選んでおり、史実かどうか疑わしいという。

明治29年(1896年)3月29日
  気多郡と合併して気高郡となった。
気多郡(けたぐん)
概要

=7
  1:大原郷         
  2:坂本郷
  3:口沼(かぬ)郷
  4:勝見(かちみ)郷
  5:大坂郷
  6:日置郷
  7:勝部郷 

郡家
郡家は大坂郷内に所在していたとされ、発掘調査によって上原遺跡(現・鳥取市気高町上原)に比定されている。
また、鳥取市気高町上光にある戸島遺跡も古代の官衙跡として発掘されており、坂本郷の郷衙跡とする説もあるが、確定までには至っていない。
このほか、所在地は不明であるが、郡内には山陰道の柏尾(かしわお)駅が設けられていた。

補足
1889年(明治22年)10月1日町村制施行
  青谷町、鹿野町、気高町


国府・一宮など
国府
法美郡(法味郡)にあった。現在の鳥取市国府町中郷にあった。

式内社
延喜式神名帳には、大社1座1社・小社49座41社の計50座42社が記載されている。

大社・一宮
法美郡の宇倍神社(鳥取市、旧 岩美郡国府町)で、名神大社に列し、一宮となっている。
二宮以下は不詳である。

総社
時範記によれば国府の近くにあったようだが、現存しないものとみられている。
宇倍神社境内社に「国府神社」があるが、これは大正時代の改称である。



参考資料  
「和名類聚抄郷名考證」 (吉川弘文堂 1966 池邊彌)
「和名類聚抄郡郷里駅驛名考證」 (吉川弘文堂 1981 池邊彌)
「鳥取県の歴史」 (山川出版 1997)

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