日本の歴史人口学
古文書に記載された人口
弥生・古墳時代
『魏志倭人伝』によると、邪馬台国他七国で計15万9000戸余を数えたとしている。
日本初の戸口調査は崇神天皇時代に行われたとされる。

飛鳥・奈良時代
670年(天智天皇9年)
全国戸籍である庚午年籍が作成されたとするが、木簡の研究からは戸数の把握に留まっていたとみられる。

690年(持統天皇4年)
庚寅年籍が作成されると、以降6年毎に戸籍を作り直す「六年一造」が始まった。
しかしながら作成された戸籍は30年で破棄する措置が取られたため、現在では戸籍の断片や一部地域の人口集計が伝わっているのみである。

平安時代
平安時代初期まで改籍が実施されたが、律令制の後退と有力貴族による荘園制の成立により、戸籍自体の作成が行われなくなった。
古代より中世の人口は、いくつかの年代の総人口が仏閣関係者の書物に記載されているが、何れも信頼に足る数字ではなく、男女比が異常である。澤田吾一は、頻繁に言及される49や800万という数字は仏典に関連のある数字であり、戸籍などから起こした実数ではないと指摘している

江戸時代
日本の場合は宗門人別改帳という良質な史料があったのでその研究によって数々の成果が得られた。
例えば17世紀の爆発的な人口増加や出稼奉公による都市と農村の関係性などである。
これらは近世社会史に新しい視点をもたらしている。


研究者による人口推計と根拠
旧石器時代・縄文時代・弥生時代
鬼頭宏の推定人口
小山修三(1978,1983年)の説に依拠している。
遺跡数と、遺跡当たりの推定収容人口比から、弥生時代に関しては遺跡数に56、中期以降の縄文時代に関しては遺跡数に24、縄文時代早期に関しては遺跡数に8を乗じた値をそれぞれの時代の推定人口とすることで算出された。
      縄文時代早期   2万0100人
      縄文時代前期  10万5500人
      縄文時代中期  26万1300人
      縄文時代後期  16万0300人
      縄文時代晩期   7万5800人
      弥生時代     59万4900人

奈良時代〜平安時代初期
鬼頭宏の725年の推定人口
鎌田元一(日本古代の人口について 木簡研究  第7号1984年)に依拠している。
即ち1郷当たり推定良民人口1052人に『和名類聚抄』記載の郷数(4041)を乗じた値を政府掌握人口(425万1100人)とし、賎民人口(良民人口の4.4%、18万7050人)と岸俊男による平城京の推定人口(7万4000人)を加算し、451万2200人と算出している。

澤田吾一は『和名類聚抄』記載の郷数(4041)を疑い、『宋史日本伝』記載の3772郷414駅に着目し、1駅を半郷相当、1郷当たり推定人口を1399人、平城京の推定人口を20万人として奈良時代の推定人口577万人を算出している。

鬼頭宏の800年の推定人口
澤田吾一に依拠している。
澤田吾一は『弘仁式』、『延喜式』の出挙稲数に、陸奥の弘仁の課丁数(3万4790人)との比(27.07人/1000弘仁出挙束、または21.98人//1000延喜出挙束)を乗じて各旧国の課丁数を推計し、戸籍・計帳断簡より求めた8世紀後半の課丁数人口比(課丁数18.7人/人口100人)を推定した。
また畿内の内、山城、大和、河内、摂津については課丁の率を半分と仮定し(課丁数18.7人/人口50人)、対馬、多禰、志摩、平城京の推定人口7000人、3700人、6500人、20万人を加えることで総人口559万9200人(弘仁式)、または557万3100人(延喜式)を算出し、両者の平均である560万人を奈良時代の推定良民人口と考えた。
さらに賤民や遺漏人口を100万人と見積もり、奈良時代の全人口を約600万〜700万人と推定した。

平安時代
鬼頭宏の900年の推定人口
和名類聚抄に記載の田積数(但し尾張、志摩、日向については田積数を修正)について1人当たり配給面積を1.6反(0.16町)、6歳未満人口を6歳以上人口の16%、平安京の推定人口を12万人として算出している。

ファリスの950年の推定人口
鬼頭宏(1996年)の手法を修正したものである。
すなわち『和名類聚抄』記載の田積数を10世紀中頃のものと考え、1人当たり配給面積を2.17反、6歳未満人口を6歳以上人口の16%、都市人口を15万人(平安京10万人)として推定人口480万人が計算される。
また実際の耕作地は記載値の75%に過ぎず、田積から求まる人口の約0.4倍が他の農業・狩猟により養われていたと仮定すると、推定人口560万人が計算され、これをファリスの上限推定人口とする。

鬼頭宏の1150年の推定人口
拾芥抄に記載の田積数(92万6465町)について1人当たり配給面積を1.6反、6歳未満人口を6歳以上人口の16%、平安京の推定人口を12万人として算出している。


鎌倉時代〜室町時代
ファリスの1280年の推定人口
『大田文』記載の九州6国(豊前、肥前、豊後、日向、大隅、薩摩)、西日本5国(若狭、丹後、但馬、石見、淡路)、能登、常陸の田積数と『拾芥抄』記載の旧国別田積数の比較による。
すなわち1人当たり配給面積を1.81反、6歳未満人口を6歳以上人口の16%、都市人口を20万人(平安京10万人、鎌倉6万人)、田積から求まる人口の約0.4倍が他の農業・狩猟により養われていたと仮定することで、1280年の推定人口を1150年の上限推定人口(590万〜630万人)よりやや減少した570万〜620万人と算出している。

ファリスの1450年の下限推定人口
兵隊人口の比較による。
満済の『満済准后日記』の記述によると、山名宗全、畠山義深などの守護大名軍は平均して325騎、徒歩兵2500人の軍隊を有しており、足利将軍家が10大名に相当する軍隊を有し、守護大名の総数を37〜60人とすると日本全土で兵の総数は13万2775〜19万7750人と算出される。
律令時代の兵隊人口比(56人で兵隊1人)より地方推定人口は920万人(740万〜1100万人)となり、都市人口率を4%(40万人)と仮定することで960万人が算出される。

安土桃山時代〜江戸時代前期
吉田東吾の推定人口
は1人1石という仮定に基づいて1598年の慶長石高から1600年の推定人口を1850万人と見積もった。

速水融の推定人口
1人0.28〜0.44石と石/人比を訂正し、元和2年(1622年)の小倉藩の人畜改帳や諏訪郡の人別改帳などから150年で人口が3倍になる成長パターンを導き、1600年の推定人口を620万〜980万人、後に1230万人へ改訂した。

鬼頭宏の1600年から1700年までの推定人口
江戸時代前半の人口成長パターンが150年間で3倍になるロジスティック関数によると仮定し(50年後に1.41倍、100年後に2.67倍、150年後に3倍)、寛延3年(1750年)の推定人口(江戸幕府調査人口に20%上乗せしたもの)から遡って計算している。その際全国を先進国(山城、大和、摂津、河内、和泉)、中進国(尾張、美濃、伊賀、伊勢、近江、丹波、播磨)、後進国(その他)に分類し、人口成長の開始期をそれぞれ1500年、1550年、1600年と仮定する。

斎藤修の推定人口
1450〜1600年以前の人口増加率を0.3%/年、1600〜1721年の人口増加率を0.51%と仮定して,1600年の推定人口を1700万人と算出している。

江戸時代
江戸時代に入ると宗門人別改帳制度が成立し、各地域毎の人口がより正確に把握されるようになった。
しかしキリシタン取り締まりの為に寺社毎に戸口をまとめた物で、全国人口調査と呼べるものではなかった。

現代の学者の推定では、江戸時代中期・後期を通じて、日本の人口は約3000万人前後であった。



1700年以前の日本の推定人口
1995年、文部省(現・文部科学省)の助成により速水融氏が中心となって「ユーラシア社会の人口・家族構造比較史研究」(ユーラシア人口・家族史プロジェクト)が行われた。
これは日本、中国、イタリア、ベルギー、スウェーデンなどが参加する国際共同研究プロジェクトである。

1700年以前の推定人口は、戸数、郡郷数(『拾芥抄』)、石高(『天正記』『当代記』記載の太閤検地総石高)、田積数(『和名類聚抄』)、出挙稲数、課丁数(『宋史列伝』)、あるいは遺跡の数などを基にモデル計算されている。
以下におおよその人口を記載する。

西暦 McEvedy &Jones
(1978年)
Birabenら
(1980年)
鬼頭ら
(1996年)
平均
BC6100年 縄文 20,100
BC3200年 105,500
BC2300年 261,300
BC1300年 160,300
BC900年 75,800
BC400年 弥生 1,000,000
BC200年 100,000 1,000,000 550,000
紀元元年 300,000 2,000,000
200年 700,000 2,000,000 594,900 1,100,000
400年 古墳 1,500,000 4,000,000
500年 5,000,000 3,500,000
600年 飛鳥 3,000,000 5,000,000 4,000,000
700年 奈良 4,000,000
715年 4,512,200 4,500,000
800年 平安 4,000,000 4,000,000 5,506,200 5,000,000
900年 4,000,000 6,441,400
1000年 4,500,000 4,000,000
1100年 5,750,000 5,000,000
1200年 鎌倉 7,500,000 7,000,000 7,250,000
1150年 6,836,900
1250年 9,000,000 9,000,000
1300年 室町 9,750,000 10,000,000
1340年 10,000,000
1400年 12,500,000 9,000,000 10,000,000
1500年 安土桃山 17,000,000 10,000,000
1600年 江戸 22,000,000 11,000,000 12,273,000 12,000,000
1700年 29,000,000 25,000,000
1800年 30,000,000



古代中国の推定人口
前漢から後漢に推移する時の騒乱により、中国全体の人口は激減していた。

AD2年=人口6000万

AD57年=人口2100万
後漢成立辞の内乱によりAD57年には2100万にまで激減。
その後は徐々に回復、

AD157年=人口5600万
157年には5600万にまで回復している。

AD280年=人口1600万
しかし黄巾の乱から大動乱が勃発したことと天災の頻発により、再び激減して西晋が統一した280年には1600万と言う数字になっている。
動乱の途中ではこれより少なかった。

この数字は単純に人口が減ったのではなく、国家の統制力の衰えから戸籍を把握しきれなかったことや、亡命(戸籍から逃げること=逃散)がかなりあると考えられる。
(歴代王朝の全盛期においても税金逃れを目的とした戸籍の改竄は後を絶たなかったとされており、ましてや中央の統制が失われた混乱期には人口把握は更に困難であったと言われている。

AD960年=6000万
再び中国の人口が6000万の水準に戻るのは北宋まで待たねばならない(ただし6000万足らずが当時の中国の人口の限界点であったとも考えられる)。



参照
  式内社数の多寡に影響すると思われる要因・・・・人口


参考資料
「人口から読む日本の歴史」 (鬼頭宏著 講談社学術文庫 2000年 )
「図説人口で見る日本史」   (鬼頭宏著 PHP研究所 2007年)
歴史人口学で見た日本」  (速水融 文春新書 2001年)

Wikipedia  「近代以前の日本の人口統計、 「歴史人口学」

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歴史人口学(れきしじんこうがく)
人口の歴史的な変遷を研究する学問。
おもに、近代的な国勢調査が始まる以前の人口を対象にする。
米子(西伯耆)・山陰の古代史