弥生時代の墓制 | ||||
墓の形態による分類 | ||||
縄文時代 縄文時代は、住居のそばに埋葬することが一般的であり、共同墓地としてはストーンサークルが知られる。 縄文期には地面に穴を掘り遺体を埋葬する土壙墓(どこうぼ)が中心だった 弥生時代 弥生時代になると集落の近隣に共同墓地を営むことが一般的となった。 弥生期は甕棺・石棺・木棺など埋葬用の棺の使用が中心となっていく。 また弥生期の墓制は、地域ごと、時期ごとに墓の形態が大きく異なる点に特徴があった。 社会階層の分化に伴い、階層による墓制の差異も生じた。 |
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墓の段階による分類 | ||||
弥生時代の墓制は大きく三つの段階に分けられる。 第一段階 集団墓・共同墓地という段階。 第二段階 集団墓の中に不均等が出てくるという段階。 第三段階 集団内の特定の人物あるいは特定なグループの墓地あるいは墓域が区画されるという段階である。 その場合、墓域は普通、方形に区画されることが行われる。 以上の三つは、段階であって時期ではないので、ある時期にはその段階しか存在しないというものではなく、段階が同時にあらわれることが起きる。 |
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墳丘墓(ふんきゅうぼ) | ||||
墳丘墓とは | ||||
弥生時代前期から後期にかけて、首長層を埋葬するために墳丘を築いて造られた墓。 |
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墳丘墓の時代的変遷 | ||||
1:弥生前期(BC500−BC200頃) | ||||
弥生前期に出現する方形周溝墓、方形台状墓、円形周溝墓の三形式が基本で、後期に円形台状墓が加わる。 方形・円形周溝墓は、墓の四周に溝を掘り主に平地に築かれ、墓の周囲の地山を削り出す台状墓は主に丘陵上に築かれた。 その他の憤丘墓も三形式の変容型として地域型、階層型、複合型などに区分することができる。 そして、特徴は、首長墓の出現と展開であり、地方色の顕著な現れである。 それは、各地における首長層の成長と、地域的・地方的段階での政治的結びつき(首長連合)の形成過程であった。 |
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2:弥生時代前期から中期(BC200−BC50頃) | ||||
弥生時代前期から中期においては、西日本の各地に各種の憤丘墓が拡がるが、憤丘規模に大きな格差のない段階である。 方形周溝墓 畿内から近江、伊勢湾沿岸の東海西部に定着し、西は播磨から東は関東・北陸の西部まで拡散する。 円形周溝墓 瀬戸内中部に出現し、播磨に拡がり、その後は徐々に東に拡がる。 方形台状墓 近畿北部・北陸・東海の一部に出現する。 |
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3:弥生時代中期後葉から後期前半(BC50頃ーAD150頃) | ||||
弥生時代中期後葉から後期前半にかけては、憤丘規模に格差が広がり、墳長20メートル以上の大型墓が出現する。 それらは首長・地域有力者の墓と推定される。 また、中国地方北部や山陰、近畿北部に地域的特色を有する憤丘墓が築造されだした。 この時期から次の時期にかけて石器から鉄器使用が本格化し始める。 朝鮮半島南部で産出する鉄素材の流通機構の移行・再編が地方レベルまでおよび、首長層の政治的連合や同盟が、これまで以上に推進したと考えられる。 |
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4:弥生時代後期後半から終末期(AD150頃ーAD250頃) | ||||
弥生時代後期後半から終末期にかけては、一部の憤丘墓で突出部が発達し、首長墓専用の憤形が成立する。 中国山地 弥生中期後葉から 吉備では 弥生後期後葉から 山陰では 弥生後期後葉から (同じ山陰でも出雲・伯耆因幡には時間的ずれがある) 北陸では 少し遅れた時期から ↓ (詳細は四隅突出型墳丘墓へ) |
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5:弥生時代の墓制まとめ | ||||
以上のように、弥生時代後期後葉には、弥生墳丘墓が地域ごとに独自な形式で成立するとともに、地域ごとの祭祀的世界や政治的勢力が形成されていたと考えられる。 一方では他の憤丘墓が小型化し、さらに最下層墓が密集型土抗墓となっていく。 共同体の階層分化が急速に進行し、共同体村落の環濠集落が解体の道をたどる。 各地には核となる憤丘墓が現れて地域が連合し、さらに地方が連合し、それらの段階で共通の憤丘墓型式を採用することにより他地方との区別を明確にしていったと考えられている。 そして、古墳時代に入ると前方後円墳が巨大化し、突出部は、前方部に整えられていく。 さらに、墳丘の形と規模において格差が明瞭に現れて、前方後円墳・前方後方墳・円形・方形といった前方後円墳体制を形成する。 |
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墳丘墓の形式 | ||||
1:方形周溝墓(方形低墳丘墓) 2:方形台状墓 3:円形周溝墓 4:四隅突出型墳丘墓 詳細は、「四隅突出型墳丘墓」へ |
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各地の墳丘墓 | ||||
北部九州 佐賀県吉野ヶ里遺跡の憤丘墓は、南北約46メートル、東西約27メートルで長方形に近く、高さ4.5メートル以上あったと推定されている。墓壙を頂上から掘って14基以上の甕棺を埋置している。 甕棺は弥生時代中期のもので、この時期に何故大型憤丘墓が出現したのかについてはまだ明確に分かっていない。 中期後半では、王墓が出現する。 福岡県三雲南小路遺跡は溝で囲まれ、一辺30メートル以上の憤丘で王墓と推定され、2基の甕棺から57枚の以上の中国鏡が出土している。 『魏志』倭人伝に記された「伊都国」の支配者の墓であると考えられている。 後期にかけても立派な副葬品をもった墓が発見されているが、憤丘が破壊されているため憤丘墓としての実態をつかめない。 山陽 兵庫県揖保川町養久山5号弥生墳丘墓 墳長約20メートル、前後に突出部が造られており、高さ約1.5から2メートルと推測される。 楯築弥生墳丘墓 突出部を含めた墳丘の長さが80メートルくらいの墳丘墓が現れた。 それは岡山県倉敷市の楯築弥生墳丘墓であるが、円丘の高さは約4.5メートルもある。 突出部には列石が二列に巡らされていた。 山陰 (米子周辺の遺跡へ) (島根県の遺跡へ) 四隅突出型弥生墳丘墓は、広島県北部から山陰で盛んに造られた。 突出部の起源は、弥生時代中期後葉まで遡る。 島根県出雲市西谷3号墳弥生墳丘墓 東西の辺約40メートル、南北の辺約30メートル、高さ約4.5メートルという大きなものもある。 島根県安来市、仲仙寺、安養寺、塩津山の墳墓群 日本一の四隅突出墳丘墓の集中地帯となっており、古墳時代まで続く様々な形の首長墓が造られている。 近畿北部 近畿地方北部の丹後地域に、豪華な副葬品をもつ大形の憤丘墓が弥生時代終末期に出現している。 京都府赤坂今井憤丘墓 37×35メートル、高さ4.2メートルほどの方形憤丘墓である。 墳頂中央には巨大な墓壙が発見されているが、棺などはまだである。 出土土器から3世紀初めで、この地域の政治的集団の王の墓であろうと推定されている。 近畿中央部 奈良県ホケノ山古墳 前方後円形の憤丘で、弥生憤丘墓であるとする見方と古墳時代のものとする見方が出されている。 |
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墳丘墓の特徴 | ||||
祭祀土器 弥生墳丘墓は地域ごとの部族の首長の墓であることが多いが、弥生時代後期後半に、吉備地方(岡山県と広島県の東半分を併せた地域)において、その弥生墳丘墓での埋葬祭祀に特殊器台・特殊壺と呼ばれる土器が作られ使用された。 これらの土器の最古級は、楯築弥生墳丘墓から出土している。 特殊器台は高さ約1.15メートルもあり、これに酒を入れた特殊壺を乗せると高さは約1.5メートルにも達する。 特殊器台・特殊壺は立坂型、中山型、矢谷型と次々に新しい型のものが登場する。 矢谷型特殊壺の底は焼く前に底に大きく削り取られて孔が開けられ、酒を入れるものでなくなっている。 これらがやがて宮山型を経て都月型円筒埴輪・特殊型土器埴輪になっていく。 文様が抽象化され、形が簡素な物に変化するが、墳丘に配置する量が増え、祭祀が盛大に行われるようになる。 棺と槨 弥生墳丘墓の棺は短く、内法で約2メートルの組合せ箱形木棺が盛行する。北部九州などでは組合せ箱式石棺が使われる。 棺を納める槨も棺に応じた長さで、木槨・石槨がある。最終的には石槨が使われ、前方後円墳の石槨に繋がる。 楯築弥生墳丘墓の木槨は長さ約3.5メートル、木棺の長さ約2メートルで、木槨は二重底になっている。 最古式の前方後円墳が出現する頃には、槨が石槨になり、木蓋は石蓋に変わり、棺も割竹形・箱形と格差が現れる。 副葬品 種類が貧弱で、やりがんな1本とか、ガラス小玉2,3個、鉄剣1本しか埋葬されていない場合もあり、何も副葬されない埋葬が多い。 最大の楯築弥生墳丘墓でも、剣1本、首飾り2連、小玉小管玉群1括にすぎなかった。 ところで、北部九州の弥生時代前期末、中期の副葬品は多くの韓製銅剣、銅矛、銅戈などの青銅器、大陸製の青銅器や壁(へき)、その他玉類などが豊かであった。 しかし、後期後葉には、副葬の慣習が変化したのか副葬品が吉備や出雲と同じく貧弱になった。 その理由について、今日よく分かっていない。 しかし、古墳時代に入ると、副葬品の量・質・ともに豊かになり、身分の差を表現するようになったと考えられている。 |
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古墳(こふん) | ||||
古墳とは | ||||
一般には墳丘を持つ古い墓のこと。 古代の東洋では位の高い者や権力者の墓として盛んに築造された。 日本史では、3世紀後半から7世紀前半に築造されたものを特に「古墳」と呼び、それ以外の時代につくられた墳丘を持つ墓は墳丘墓と呼んで区別している。 |
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古墳の時代的変遷 | ||||
弥生時代終期(AD200年頃ー250年頃) 昭和時代まで箸墓古墳が最も古い古墳とされていたが,平成元年の纏向石塚古墳の発掘によって最古の古墳という認識が変わった。 纏向石塚古墳 全長93mの前方後円墳 AD200年ごろの築造ではないかと考えられている。 纏向勝山古墳 全長110mの前方後円墳 纏向矢塚古墳 全長96mの前方後円墳 ホケノ山古墳 全長90mの帆立貝式前方後円墳 AD240年ごろの築造と推測されている。 古墳時代前期(AD260年頃−400年頃) 奈良盆地に大型前方後円墳 埋葬施設=竪穴式石室 副葬品 =呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具、円筒埴輪が 例=箸墓古墳 古墳時代中期(AD400年頃−500年頃) 大型前方後円墳(さらに巨大化) 奈良盆地から河内平野に移る。 埋葬施設=長持ち型石棺 副葬品=馬具・甲冑・刀などの軍事的なもの。 例= 古墳時代後期(AD500年頃−600年頃) 大型の方墳、円墳へと変化 小規模化群集墳墓・横穴群が増える 埋葬施設=西日本の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになった。 関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れた。 北部九州では石人・石馬が急速に衰退した。 古墳時代終末期(AD600年頃−645年頃) 646年の薄葬令以後、古墳は造られなくなる。 |
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古墳の形式 | ||||
外形を大別すると、円墳・方墳・前方後円墳の3つにわけられる 円墳 前・中・後期を通じて一般的。 方墳 築造には、地域的性格がかなり強くあらわれている。 前方後円墳 平面が円形と方形の墳丘を組み合わせた形状。 円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)が発達し、墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として墳丘と一体化したと考えられる。 |
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古墳の構造 | ||||
濠 大型の古墳に巡らされている濠は、墳丘に盛る土をとったためにできた溝に、水を溜めたもので、その水面を基準として墳丘の形を整えたとも考えられている。 埋葬施設 竪穴系 築造された墳丘の上から穴を掘り込み(墓坑 ぼこう)、その底に棺を据え付けて埋め戻したもの。 横穴系のもの 地上面もしくは墳丘築造途上の面に構築され、その上に墳丘が作られる。 棺 古墳時代には、死者を棺に入れて埋葬した。 棺の材料によって、木棺、石棺、陶棺などがある。 木棺のうち刳りぬき式のものは、巨木を縦に二つに割って、それぞれ内部を刳りぬき、蓋と身とが作られたものと考えられ、「割竹式木棺」と呼び習わされている 。しかし、巨木を二つに割るというが、竹を二つに割るように簡単にはいかないので用語として適切かどうかを指摘する向きもある。 つぎに「組合式」といわれる木棺は、蓋、底、左右の側板、計四枚の長方形の板と、前後の方形の小口板、時には別に仕切り板が付くこともあるが、二枚とを組み合わせて作った。 槨(かく) 墓室内部の棺を保護するもの。 木槨・石槨・粘土槨・礫槨(れきかく)・木炭槨などがある。 |
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分布・数 | ||||
北海道・東北北部・沖縄諸島を除く各地に広く分布する。 日本の古墳所在件数(平成3年文化庁調査 全国合計 161,560基) 1位 兵庫県 16、577基 2位 千葉県 13、112基 3位 鳥取県 13、094基 4位 福岡県 11、311基 5位 京都府 1、1301基 |
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参考資料 | ||||
「日本考古学事典」 (三省堂 2002 田中琢・佐原真著) wikipedia 「弥生時代の墓制」 |
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