倭迹迹日百襲媛命
概略
第7代孝霊天皇の皇女。
崇神紀十年の条に有名な箸墓伝説が記されている。
倭迹迹日百襲媛命大物主神の妻となるが、大物主の本体が蛇であることを知って驚き、倒れこみ、箸が陰部に刺さって死んだ。箸墓古墳は、彼女の墓と伝わる。

 (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)


系譜
父=第7代孝霊天皇  母=倭国香媛(やまとのくにかひめ)。

同母兄弟
  倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと)
  彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこ)

異母兄弟(義母=細媛命−磯城縣主大目の娘)
  第8代孝元天皇


『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売命。
同母兄弟に日子刺肩別命、比古佐勢理毘古命、倭飛羽矢若屋比売


事績
伝承の域を出ないが以下の様な事績が伝えられている。

崇神6年(紀元前92年)
崇神天皇に頼まれて、倭迹迹日百襲媛が災害のつづく理由を占うと、三輪山の大物主神が神懸かりして、我を祀れば国は治まるといった。
そこで崇神は、神の娘大田田根子を大神神社の神主にすると、平和になったという。

崇神10年(前88年)
9月 四道将軍の派遣
大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた。
しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返た。
倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(孝元天皇の皇子)の叛意を知る。
武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。
天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。

10月
畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。


倭迹迹日百襲媛命と箸墓
箸墓
参考資料


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