淡海三船(おうみのみふね)
概説
養老6年(722年)出生。
はじめは御船王。天平年中に出家して元開と称す。
751年(天平勝宝3年)、勅命により還俗、淡海真人の姓を賜る。
延暦4年7月17日(785年8月30日)逝去。

 (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)


系譜
  天智天皇
    ↓
  弘文天皇(大友皇子)
    ↓
  葛野王(かどののおおきみ)
    ↓
  池辺王(いけべおう)
    ↓
  淡海三船
    ↓
  淡海浜成 淡海高主


生涯
722年(養老6年)
  池辺王の子として出生。

751年(30歳)

  勅命により還俗、淡海真人の姓を賜る。
  30人ほどの諸王に対し「真人」賜姓が行われ、御船王は淡海真人の姓を賜った。

756年(35歳)
  朝廷を誹謗したとして大伴古慈斐(おおとものこしび)とともに衛士府に禁固された。

764年(44歳)
  恵美押勝の乱の時、偶然造池使として近江にいたため、勢多橋を焼き落とし、押勝の進軍を妨害する。
  その功によって従五位下より正五位上、勲三等を授けられ、近江介となる。
  その後中務大輔兼侍従に転じた。

766年(46歳)
  東山道巡察使に任じられたが、下野国の国司に対して「検括酷苛」だったとする。
  
767年(47歳)(神護景雲元年)
  6月に解任された。
  以後、大宰少弐、刑部大輔となる。

772年(51歳)
  大学頭兼文章博士(もんじょはかせ)。

785年(64歳)
  刑部卿従四位下兼、因幡守で卒去。64歳。

卒伝に「性識聡敏にして群書を渉覧しもっとも筆札を好む」と見える。
石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)の卒伝に二人が「文人の首」と称されたとある。


事績
続日本紀前半の編集
若いときに僧であったこともあり、外典・漢詩にも優れていた。
「経国集」に漢詩5首を載せ、「続日本紀」前半の編集に関与した。

懐風藻(751年)の撰者
現存最古の漢詩集「懐風藻」の撰者とする説がある。

漢風諡号の一括撰進
また、『釈日本紀』所引「私記」(797年)には、三船が神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進したことが記されている。

鑑真の伝記(779年)の記述
779年(宝亀10年)には鑑真の伝記「唐大和上東征伝」を記し、現在も貴重な史料として認められている。


諡号(しごう、おくりな)
諡号
諡号
主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のこと。
諡号を奉るという事については、王権継承から着目し、即位を正統化する儀式であることに本来の意義がある。

日本の諡号

国風諡号・漢風諡号の2種類がある。
このうち、国風諡号は日本特有のもので、和風諡号・国語諡・本朝様諡等の別称がある。


和風諡号(国風諡号)
和風諡号(国風諡号)を奉る制度
41代持統天皇以来、先帝の崩御後に行われる葬送儀礼=殯(もがり)の一環として行われてきた。
その殯の場では、先帝の血筋が正しく継承されたものであることやその正統性を賞揚するとともに、合わせて先帝に和風諡号を贈った。
持統天皇から平安時代前期の54代仁明天皇まで追贈された。
途中、当時は廃帝とされた47代淳仁天皇、唐風文化を愛したことで有名な52代嵯峨天皇の2人には和風諡号らしきものはない。
仏僧である道鏡に傾倒した46代孝謙天皇(重祚して48代称徳天皇)は、和風諡号と紛らわしい「高野姫天皇」とか「倭根子天皇」と呼ばれた例はあるが、いずれも和風諡号ではない)。

初代神武天皇「神日本磐余彦」(かむやまといわれひこ)から40代天武天皇「天渟中原瀛真人」(あめのぬなはらおきのまひと)までの名前も、慣例的に和風諡号とよんでいるが、必ずしも実際に諡号だったわけではない。
特に15代応神天皇から26代継体天皇までの名は、22代清寧天皇を除き多くの研究者により諱(いみな=実名)と考えられている。
したがって和風諡号の制度ができたのは、その後である(制度として確実なのは持統天皇が最初である。それより前、27代安閑天皇以降、おそらく29代欽明天皇の崩御時と考える説もある)

和風諡号の開始時期
持統説
確実に和風諡号だとわかるのは、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日、持統天皇の火葬の際に「日本根子天之広野日女」と奉ったことが書かれており、これが史料上最初の記録である。
よってそれ以前のものは本当に諡号なのかも知れないが、生前からの別名である可能性もある(和風諡号的な名前と他の皇子と同じような素朴な名前が伝わっている場合は、後者は実名と考えるのが自然であるが、前者は死後の諡号なのか生前からの別名(尊号)なのか判然としない)。

欽明説
欽明天皇の「天国排開広庭」(あめくにおしはらきひろにわ)は、諡号のように見えること、また和風諡号を奉る「殯」(もがり)の儀式は欽明天皇崩御後に始まっていることから推定された説である。
前2代の安閑・宣化両天皇も諡号のようにみえるので、あるいは安閑天皇没時かとも考えられるが、上宮聖徳法王帝説のような古い所伝に継体天皇の直後欽明天皇が即位したとあり、一時的に両王統が対立したとも考えられるので、欽明天皇崩御時にあらためて欽明天皇によって否定された安閑・宣化ともども諡号を追贈することによって、王権内の安定を期したとする。


漢風諡号
漢風諡号制度の導入
漢風諡号の方は、中国とほぼ同様、生時の行いを評して、『逸周書・諡法解』などの定義によって選定された。
諡を撰して奏上するのは明経道を学んだ明経博士や大外記などの儒家である。
ただし、日本では悪諡は適用されていない。

漢風諡号の開始時期
『釈日本紀』に引用された「私記」に、「師説」として初代神武以下の諡号は淡海三船の撰とある。
そのため、神武天皇から41代持統天皇まで(当時天皇に数えられていなかった大友皇子=39代弘文天皇を除く)、及び43代元明・44代元正天皇の諡号は、淡海三船によって天平宝字6年(762年)~同8年(764年)に一括撰進されたと想像されているが、天平勝宝3年の『懐風藻』には「文武天皇」(42代)と見えており、「聖武天皇」(45代)も天平宝字3年と判明しているなど、別の撰進もあったことがわかっている。
ちなみに、「弘文天皇」は明治3年(1870年)の撰進である。

漢風諡号制度の衰微と廃絶
漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に途絶えた。
これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院から改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである(いずれも怨霊を恐れられたゆえに「徳」の字を奉られた。


諡字による諡号の意味に関する諸説
「神」の字
125代中、神の字を持つ天皇は3人。但し神功皇后にも神の字が冠する。
王朝の始祖に当たる天皇とされる。
  神武天皇  第10代崇神天皇  神功皇后  第15代応神天皇


「徳」の字
殺害されたり辺地や流刑地で没したりした天皇に、怨霊封じのため贈られたとされる。
7人の天皇が該当する。
但し、聖徳太子についてもこの説が適用されるという。
また、崇徳、顕徳、順徳、安徳の4人の天皇をまとめて「四徳」と呼ぶことがある。
「四徳」や「元徳」は、追号が続いていた時代に諡号を贈られたこと自体が、異例のことである。

36代孝徳天皇
皇太子に実権を握られ都に置き去りにされ没した、

48代称徳天皇 55代文徳天皇
譲りたい者に皇位を譲れずに没した(ただし「称徳」は生前に受けた尊号「宝字称徳孝謙皇帝」による)

75代崇徳 82代顕徳天皇(後に後鳥羽と改めた) 84代順徳天応
流刑罪により、流刑先で没した。

81代安徳天皇
平家滅亡の際に入水した。

96代後醍醐天皇
当時対立していた北朝から「元徳院」の諡号を贈る案が出されたことがある。
ただし、在位中の同名の元号からとった単なる通称であるとの反論もある。
実際には本人の遺諡により後醍醐と追号された。

聖徳太子
   詳細は、「聖徳太子」


「光」の字
傍系から出て皇位を継承した場合中国の後漢の光武帝になぞらえて、「光」の字を贈ることがある。

49代光仁、58代光孝、119代光格
3人の天皇は、いずれも先代から見て傍系の出身である。
ちなみに、光孝天皇の次の宇多天皇から、光格天皇の前の後桃園天皇まで、上記の「四徳」や、明治維新後に追諡された天皇を除いて、諡号を贈られた天皇はいない。

南北朝時代の北朝の天皇
自身の正統性を主張するためか、後円融天皇を除き、遺諡によって「光」の字を含んだ追号を持つ。
後円融天皇も、平安時代に対立した2つの皇統のうち後世に皇位を伝えた方の初代である円融天皇の加後号を遺諡としている。
また、南北朝合一時の100代後小松天皇も、光孝天皇の異称「小松天皇」の加後号を遺諡としている。
101代称光天皇は、奈良時代に天武天皇系の称徳天皇から天智天皇系の光仁天皇へ皇統が移行したことを踏まえて、両者から1字ずつ取った追号である。
後光厳天皇系の称光天皇の次は、崇光天皇系の後花園天皇が即位し、皇統が移行している。


古代天皇(初代-50代)の諡号の意味に冠する諸説
初代-44代の天皇の諡号と淡海三船
『釈日本紀』所引「私記」には、三船が神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文天皇と文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進したことが記されている。

天智天皇の4世孫である淡海三船によって、天平宝字6年(762年)~同8年(764年)の間に一括撰進されたと考えられている。
ここでで考えなければならないことは、三船の血筋と当時の政治情勢である。
  756年 三船 衛士府に禁固
          朝廷を誹謗したとして大伴古慈斐(おおとものこしび)とともに衛士府に禁固された。 
          大伴家持の「族をさとす歌」は、758年(天平勝宝8年)に、淡海三船の讒言によって
          大伴古慈悲が出雲守を解任された時に詠まれたものである。 
  757年 橘奈良麻呂の変  
          橘奈良麻呂(橘諸兄の子)のクーデターを藤原仲麻呂が防ぐ。政権は仲麻呂へ。
  758年 47代淳仁天皇即位
          称徳天皇の意向によって長らく天皇のひとりと認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
  759年 万葉集成立
  760年 光明皇太后死去
          光明皇太后の死の翌年、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛。
  764年 恵美押勝の乱
          恵美押勝(藤原仲麻呂)が孝謙上皇・道鏡の勢力に対して挙兵。近江で敗死。
          淳仁天皇は廃位され淡路に流された。

上記のような時代背景の中で撰進された諡号であるが、これに関する考察は別項で記載する。


初代神武天皇神 (和風諡号=日本磐余彦 かむやまといわれひこ)
皇室の初代天皇

第7代孝霊天皇 (和風諡号=大日本根子彦太瓊尊 おおやまとねこひこふとにのみこと)
後漢書によると後漢の桓帝と霊帝の間に倭国大乱が起こったと記録されている。
桓帝と霊帝の間の天皇という意味で孝霊天皇と諡号されたという説もある。


第10代崇神天皇 (和風諡号=御間城入彦五十瓊殖天皇 みまきいりびこ いにえのすめらのみこと)
            (和風諡号=御肇國天皇 はつくにしらす すめらみこと)
 
漢風諡号から
①崇神天皇をもって初代天皇とする説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説がある。

②崇神天皇7年
2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。
11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。
この様に神に祟られた天皇という意味からの称号とする説もある。

和風諡号から
①ハツクニシラススメラミコトとの称は、神武天皇(『日本書紀』では始馭天下之天皇:はつくにしらすすめらみこと)にも贈られており、初めて天下を治めた天皇という意味であるが、初めて国を治める天皇がふたり存在することになる。
これについては、神武天皇の称号にみえる「天下」という抽象的な語は、崇神の称号にみえるという具体的な語より上位の観念であり、また、後に出来た新しい観念でもあるので、神武天皇は崇神天皇より後に「帝紀」「旧辞」の編者らによって創られたと考えられる。それ故に国(大和)を初めて治められたのは崇神天皇であると考えられる。
『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある。

②ミマキイリヒコ、次の垂仁天皇の和風諡号は「イクメイリヒコ」で、共にイリヒコが共通している。
イリヒコ・イリヒメは当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。
「イリ」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族は実在の可能性が高まり、崇神天皇を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。

③崇神・垂仁の二帝の名は和風諡号ではなく実名(諱 いみな)をそのまま記紀に記載した、とする説も存在しており、「イリ王朝」が古代日本史に於いて、如何に特殊かつ重要な存在であったかを伺わせる。


第11代垂仁天皇 (和風諡号=活目入彦五十狭茅尊 いくめいりびこいさちのみこと)
垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺志により同15年2月甲子(10日)に丹波(後の丹後国を含む広義の丹波国)から後宮に迎えられ、同年8月壬午(1日)に立后、同32年7月己卯(6日)に薨じたとされる。
またその葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという。
「仁を垂れる」という意味の「垂仁」という漢風諡号はこの故事に因むものとされる。


第13代成務天皇 (和風諡号=稚足彦尊 わかたらしひこのみこと)
務(事業)を成し遂げた天皇。
諸国に令して、行政区画として国 郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図った。ここにおいて、人民は安住し、天下太平であったという。
「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えていることも注目される。


第15代応神天皇 (諱または和風諡号=誉田別天皇 ほむたわけのすめらみこと)
河内王朝の始祖と見なす説が有り、そのため神の字を冠するとも言われている。
応神天皇の名とされる「ホムダワケ」(『日本書紀』では誉田別、『古事記』では品陀和気と表記)は、実は生前に使われた実名だった、とする説がある。


第16代仁徳天皇 (和風諡号=大鷦鷯天皇 おほさざきのすめらみこと)
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。
しかしながら徳の字を冠する天皇については非業の死を遂げた例が多く、諸説有り詳細は不詳。


第21代雄略天皇 (和風諡号=大泊瀬幼武尊 おおはつせわかたけるのみこと)
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、古代の人々が雄略朝を歴史的な画期として捉えていたとみることもできる。


第25代武烈天皇 (和風諡号=小泊瀬稚鷦鷯天皇 おはつせのわかさざきのすめらみこと)
次代の継体天皇の即位を正当化する意図によって名付けられたとする。

武烈天皇2年(500年)9月に、妊婦の腹を割いて胎児を見る。この年以降、猟奇性を帯びた愚行を行ったとされる。
しかしこれら天皇による悪逆非道の記述は、『古事記』には一切見られない。
その一方で、厳格な裁判を行ったとするなど相矛盾する記事が併存する。
この相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体天皇の即位を正当化する意図が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたとする説が一般的である。
すなわち、聖帝仁徳によって開かれた王朝が、雄略の時代を経て悪逆非道の武烈で断絶し、次の継体によって新王朝が開かれるとする王朝交替の歴史観が現れているとの説もある。


第26代継体天皇 (和風諡号=男大迹王 おおどのおおきみ)
「体制を継続させたもの」とするという意図によって名付けられたとする。


第38代天智天皇 (和風諡号=天命開別尊 あめみことひらかすわけのみこと)
殷最後の王である紂王の愛した「天智玉」から名付けられたとされる。

帝辛(ていしん、紀元前1100年ごろ)は殷朝の第30代帝であり、最後の帝。
いわゆる殷の紂王(ちゅうおう)として暴虐な政治を行なった帝とされ、暴君の代名詞となった。
周の武王に滅ぼされた。
この紂王が常に所持していたのが天智という名の玉
そして、紂王を滅ぼしたのが武王。
この故事から、天智天皇、天武天皇の諡号が出来たという。


第39代持統天皇 (和風諡号=大倭根子天之廣野日女尊  おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)
熟語の「継体持統」から持統と名付けられたとされる。
正統を継いで天子の位を受け継ぐ者の意。


参考資料
「歴代天皇全史」 (歴史群像 学習研究社 2003)

「隠された十字架 法隆寺論」 (新潮社 1972 梅原猛)
「逆説の日本史2 古代怨霊編」 (小学館 1994 井沢元彦)
Wikipedia「諡号」


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淡海三船と漢風諡号 米子(西伯耆)・山陰の古代史 
淡海三船
奈良時代後期の文人。天智天皇の4世孫。  
初代神武天皇から第44代元正天皇までの全天皇(39代弘文天皇と42代文武天皇を除く)の漢風諡号を一括撰進した。