源 満仲 米子(西伯耆)・山陰の古代史
平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。
多田源氏の祖で、多田満仲(ただのみつなか、ただのまんじゅう)とも呼ばれる。
諱は満中とも記される。神号は多田大権現。
源 満仲
概説
酒呑童子討伐を行った源頼光の父親。
源満仲が、刀匠大原安綱に打たせた双剣のひと振りが「鬼切り安綱とされる。
系譜
 
源頼光系譜 配偶者 兄弟姉妹1 兄弟姉妹2 備 考
 
始祖 56代清和天皇
       ↓
祖父 貞純親王                
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源経基                
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源 満仲 源俊の女 頼光の母は嵯峨源氏である近江守源俊の女。
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長男 源 頼光 平惟仲の娘 次男 源 頼親 三男 源 頼信
異母弟である源頼親は大和源氏の祖となる。
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源 頼国
 源 頼房 源 頼義
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源 国房
源 義家
義家:1039-1106
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源 義親
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源 為義
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源 義朝
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源 頼朝
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源 頼家
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10 源 実朝
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生涯
  912年(延喜12年) 生誕
父=源経基 母=藤原敦有の女、京都にて誕生。幼名を明王丸と呼ぶ。

936年(承平4年) 24歳
父経基、源姓を賜り平将門叛乱討伐に同行す。

939年(天慶2年) 27歳
経基と共に西海に叛乱せる藤原純友の討伐に向ひて軍功あり。

960年(天徳4年) 48歳
平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。

961年(応和元年)
武蔵権守の任期を終えていた満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こり、自ら強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた。
弘重の供述によれば醍醐天皇の皇孫親繁王と清和天皇の皇孫源蕃基がそれぞれ主犯と共犯であったという。

965年(康保2年)  54歳
左馬助在任時、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられる

同年、戸隠山に鬼神住みて牛馬六畜を殺生すとて勅命を受けて之を退治す。
鬼人の首を携へ帰って 叡覧に供し其功により正四位下を賜る。

967年(康保4年) 村上天皇崩御
藤原千晴と共に伊勢国に派遣される固関使に命ぜられるが、離京することを嫌った双方が辞退を申し出たが、満仲のみ病による辞退を許された

968年(康保5年) 57歳
藤原仲光以下千人の供を従へて住吉神社に27日間参籠紺紙金泥の写経、黄金作りの太刀一振、上箭二筋神馬三匹、其の他多大の寄進あり、此の時神前にて和歌一首。
 「松蔭の 波に浮べる月までも 深きや頼む 住吉の神」
 神箭と神託により沼沢地を開拓し新田城を造る。
 此処に九頭の大蛇を射殺し湖水乾涸多田荘72邑となる。

969年(安和2年) 58歳 安和の変 
源連らによる皇太子・守平親王(のち円融天皇)廃太子の謀反があると密告して事件の端緒をつくった。
この事件で左大臣・源高明が失脚したが、満仲は高明の一派であり、これを裏切り密告したとの噂がある。
また、この事件で満仲の三弟・満季が対立する有力武士・藤原千晴の一族を追捕している。
満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進した。
その後、藤原摂関家に仕えて、摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任する。
左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。

補足:利害関係が一致する「藤原師尹」と「源満仲」が手を結び、「橘繁延」と「藤原千晴」を謀反の実行者として失脚させた。
    藤原千晴は将門の乱鎮圧に貢献した藤原秀郷の息子。
    源満仲は藤原千晴を消し、そして謀反の黒幕を左大臣「源高明」とした。
    そして源高明を左遷させることで「藤原師尹」が右大臣から昇格できた。
    そしてその後、藤原氏は摂関政治の全盛時代に突入。
    源満仲も藤原氏に急接近して勢力を伸ばし、武士団「清和源氏」の基礎を作った。

補足:藤原秀郷と蜈蚣切(むかできり)
    藤原秀郷が近江国三上山に住む蜈蚣(大百足)を退治した礼に龍神から送られた宝物の一つであると伝えられるもの。
    伊勢神宮の宝刀として存在。
    作者については「伝神息」となっている。

970年(天禄元年)
二度国司を務めた摂津に土着。
摂津住吉郡の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地に入部、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成した
武士団の中心として坂上党の棟梁坂上頼次を摂津介に任命し、山本荘司に要請して西政所、南政所、東政所を統括して警衛にあたらせた

973年(天延元年)
こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている。
この事件による火災は周辺の建物300軒から500軒にまで延焼したという
また、この事件でも同日中に三弟満季が嫌疑人を捕らえているが、実行犯については明らかでない。

986年(寛和元年)
花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した「なにがしといふいみじき源氏の武者たち」とは、満仲の一族であったと考えられている。
この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。

987年(永延元年)
多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。
この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。
また『今昔物語集』には満仲の末子で延暦寺の僧となっていた源賢が父の殺生を悲しみ、天台座主院源と仏法を満仲に説き出家させたという説話がある。
なお同書ではこのときの年齢を六十余歳と伝えており、これによれば生年は延喜19年(919年)から延長6年(928年)の間となる。

997年(長徳3年)
8月27日に卒去。
遺骸は多田院(現在の多田神社)に葬られた。 

源満仲と童子切り安綱について
源満仲と童子切り安綱について
多田源氏の棟梁である源満仲が、刀匠 大原安綱に打たせた双剣のひと振りが「鬼切り安綱とされる。
双剣のもう一方は天下五剣のひとつで国宝名物「童子切安綱」
渡辺綱の手によって一条戻橋の鬼の腕を落としたことから、「鬼切」の名で呼ばれることになったという。
その鬼とは茨城童子であり、酒呑童子の配下の鬼であったという。
しかし実は、このときに使ったのは「髭切りの太刀」であったともいう。

この様に、「童子切り安綱」、「鬼切り安綱」の名刀は、源満仲が大原安綱に打たせた事になっている。
その名刀はいずれも、長子の頼光と、その配下である渡辺綱に渡っている。


源満仲と伯耆安綱の接点
両者の接点を詳述する史料はない。
しかし想像を膨らませることが許されれば、

965年(康保2年)54歳の頃
左馬助在任時、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられ同年、戸隠山に鬼神住みて牛馬六畜を殺生すとて勅命を受けて之を退治す。
鬼人の首を携へ帰って 叡覧に供し其功により正四位下を賜った、この前後に、秀でた武器を調達したと考えるべきか。

あるいは、
968年(康保5年) 57歳の頃
藤原仲光以下千人の供を従へて住吉神社に27日間参籠紺紙金泥の写経、黄金作りの太刀一振、上箭二筋、神馬三匹、其の他多大の寄進あり、此の時神前にて和歌一首。
 「松蔭の 波に浮べる月までも 深きや頼む 住吉の神」
 神箭と神託により沼沢地を開拓し新田城を造る。
 此処に九頭の大蛇を射殺し、湖水乾涸多田荘72邑となる。
 この時、太刀の作成を依頼したか?。

あるいは、
969年(安和2年) 58歳 安和の変の頃 
藤原秀郷の息子である藤原千晴を失脚させた。
藤原秀郷の佩刀は蜈蚣切(むかできり)で、伊勢神宮の宝刀として存在。
作者については「伝神息」となっている。
この様に藤原千晴の周囲にも名刀の陰がつきまとう。


あるいは、
970−980年頃
二度国司を務めた摂津に土着した時期。
摂津住吉郡の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地に入部、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成した
武士団の中心として坂上党の棟梁坂上頼次を摂津介に任命し、山本荘司に要請して西政所、南政所、東政所を統括して警衛にあたらせた
この坂上氏の祖先に当たる坂上田村麻呂の佩刀を安綱が作ったという伝承もある事から、この時期に安綱と何らかの接触が有り、作刀を依頼したことが考えられる。


補足:田荘(ただのしょう)
摂津国川辺郡北部(現在の兵庫県川西市全域及び宝塚市北部、三田市東部、猪名川町の一部にあたる地域)に存在した荘園。
摂関家(近衛家)領。
初期清和源氏の拠点となった。


参考資料
ウィキペデイア 「源満仲」 「藤原秀郷」 「坂上頼次」     

「源満仲・頼光―殺生放逸 朝家の守護 」 2004 ミネルヴァ日本評伝選

多田神社御由緒



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