山城伝について
山城伝
平安中期に京都の三条に住した公家の宗近(むねちか)を祖とし、京都を中心に栄えていた伝法。
朝廷に仕える貴族や天皇の需要に応じて、優雅な反りのある太刀を製作し、鎌倉末期まで栄えた
三条派、粟田口派、来派、長谷部派などがある。


山城伝の特徴
梨子地肌(なしじはだ)
小板目、小杢目が非情によく詰んで、細かな沸(にえ)が一面に付き、蒔絵の梨地のような、また梨の実の断面のように見える地肌。
山城伝系の鍛冶に見られる地肌。


山城伝と刀工:平安時代
三条小鍛治宗近(さんじょうこかじむねちか)
  人物
一条天皇の治世(980年-1011年)、永延頃(10世紀末頃)の刀工で、三条派の始祖と伝わる。

宗近の出自や生涯には諸説有るが、確証は無し。

一説には、938年(天慶元年)山城国に生まれ、1014年(長和3年)死去したとされる。
一説には、天国を師とする。
一説には、公家の出身で、姓は橘、信濃守粟田藤四郎と号すとされる。
  
橘氏説によれば、父は、従四位下 播磨守 橘仲遠。
宗近は初名仲宗で、法興院藤原兼家(東三条大入道殿)に仕え、信濃大掾に任ぜられたということになる。
その後、979年(天元2年9月29日)に稲丸との闘争の科により、同年11月に薩摩国へ流罪となる。
三重野に住し、波平正国に師事し刀鍛冶を学ぶ(この間約11年)。
990年(永祚2年)に許されて都に戻り、洛東白川に住したということになる。

「観智院本銘尽」には、「一条院御宇」の項に、
  「三条の小鍛冶と言う。後鳥羽院の御剣うきまると云う太刀を作り、少納言信西の小狐同じ作なり」と、ある

一条天皇の宝刀「小狐丸」を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられているが、作刀にこのころの年紀のあるものは皆無であり、その他の確証もなく、ほとんど伝説的に扱われている。

作刀
三日月宗近(みかづきむねちか)
  国宝  東京国立博物館所蔵  天下五剣の一振り
  太刀  銘 三条  刃長80.0cm、反り2.7cm、元幅2.9cm  附糸巻太刀拵鞘  
  日野権大納言内光所持→豊臣秀吉→徳川秀忠→中島飛行機の中島喜代一日本特殊鋼創立者渡邊三郎→国宝

小狐丸(こぎつねまる)
  九条家が秘蔵していたとされるが、現在の所在は不明。
  後一条天皇から守り刀を作るよう命ぜられた。
  しかし満足のいく刀を打てずに困っていた。
  宗近を助ける為、彼の氏神である稲荷明神が童子に化けて宗近と共に作ったと伝えられている。

鷹の巣宗近(たかのすむねちか)


三条有成
  人物
有成は三条宗近の子と伝え、河内国にも住したという。

作刀
石切丸
  太刀。銘「有成」。2尺5寸1分 。刄区若干上る。再刄。地金極めて精良。
  本太刀は再刃であるが、本間順治は三条一派の作であることは首肯できるとする。
  大阪府。石切劔箭神社蔵。1939年に重要美術品に認定(認定時は個人の所有)。


五条国永
    人物
五条兼永の子と伝わる。天喜年間頃(1053年〜1058年)に京都五条に住む
五条派の代表的刀工の一人で代表作に鶴丸の太刀がある
国永の作刀は本作を含めわずか4口しか残っていない。

作刀
鶴丸国永 (山城国国永御太刀 名物鶴丸
  御物  宮内庁管理
  刃長2尺5寸9分半(78.63cm)。細身、小峰で、反りの高い優美な立ち姿を示す。
  いわゆる御由緒物の刀剣の多くは宮中祭祀などで役割を担っている。
  いわゆる御由緒物として取り扱われる本太刀も鶯丸と同様に、毎年1月1日に実施される宮中での歳旦祭の際に使用される。


山城伝と刀工:鎌倉時代 前期~中期
序:鎌倉時代の山城伝 
鎌倉時代の山城伝
後鳥羽上皇の御番鍛冶制度により京都に各国の名工が集まり、京都は刀剣製作の中心地となった。
この時代に粟田口一派によって山城伝が完成する。

御番鍛冶制度
鎌倉時代、後鳥羽院(1180年-1239年)の命により、1か月交替で院に勤番した刀工である。
後鳥羽院は刀剣の製作を好んだ。院は京都粟田口久国、備前国信房にその業を授けられた。
1208年(承元2年)、諸国から刀工12人を召して、水無瀬において毎月、刀を作らせた

 12人の番鍛冶
    1月 - 備前国則宗   2月 - 備中国貞次   3月 - 備前国延房   4月 - 粟田口国安
    5月 - 備中国恒次   6月 - 粟田口国友   7月 - 備前国宗吉   8月 - 備中国次家
    9月 - 備前国助宗  10月 - 備前国行国  11月 - 備前国助成  12月 - 備前国助延


開祖:粟田口国家(あわたぐちくにいえ)
  粟田口派開祖。粟田口六兄弟の父。
しかし、作刀が現存せず、実質的にはその子である六兄弟が開祖とされている。


長男:粟田口国友
藤林左衛門尉。
子=則国(承久年間)  孫=国吉(宝治年間)  曾孫=藤四郎吉光
御番鍛冶六月番。  現存作は極めて少ない。


次男:藤次郎久国
備前の一文字信房とともに、「奉授剣工」として後鳥羽上皇の御作刀の相槌を許され、師徳鍛冶を拝命。

太刀  銘久国。国宝。二尺六寸五分五厘
太刀  銘久国。重要文化財。身長65.1cm
太刀  名物御賀丸(おんかまる)久国  旧御物


三男:藤三郎国安
御番鍛冶四月上番。  「山城守」を受領。

吹毛剣
後鳥羽院所持。吹毛剣とは刃の上に毛を置き、息を吹きかけると毛が切れてしまうほどの利剣のこと。
「水毛剣(すいもうけん)」ともいう。


四男:国清


五男:有国
短刀  銘  粟田口有国 1305年(嘉元二年)
細川利文子爵所持


六男:左近将監国綱(あわたぐちくにつな)
人物
鎌倉幕府第5代執権、北条時頼が招聘した粟田口六兄弟の末弟。(1163年?-1255年頃)
本名、林藤六郎。左近将監を称する。

鎌倉山の内に移住し、北条時頼のために天下五剣の一つ「鬼丸」を作刀。
子は新藤五国光。

作刀
御物 鬼丸国綱(おにまるくにつな)
  御物  宮内庁管理
  太刀  銘 国綱  刃長 二尺五寸八分(約78.2cm) 反り一寸一分(約3.2cm)

  「腰反り」から刀身全体が均等に反っている「輪反り」(「鳥居反り」とも)へと移行した時期の太刀

  北条執権家 新田義貞 斯波高経 足利家 織田信長 豊臣秀吉 本阿弥光徳 徳川将軍家(本阿弥預かり)
  明治天皇 皇室御物

重要文化財
  太刀 銘国綱 (東京・日枝神社)
  太刀 銘国綱 (愛知・徳川美術館)
  太刀 銘国綱 (静岡・井伊谷宮)

重要美術品
  太刀 銘国綱 (東京・東京国立博物館)




粟田口吉光(あわたぐち よしみつ) 藤四郎吉光
  人物
粟田口六兄弟の長男である国友の曾孫。
鎌倉中期の刀工で、通称を粟田口藤四郎
正宗と並ぶ名工で、特に短刀作りの名手として知られる。

作刀
大刀  一期一振吉光
  御物として宮内庁侍従職が管理。
  彼の作品は短刀ばかりで、太刀はこの一振しか作らなかったとされているため「一期一振」と呼ばれたとされる。

脇差 名物骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)
  大坂夏の陣に際し、堀中から無傷で回収した薙刀直しの脇差し。

脇差 無銘(鯰尾藤四郎)(愛知・徳川美術館蔵)
  焼身。小薙刀を磨上げ、脇差に直したもの。姿が鯰の尾を連想させる。
  ふくらがふっくらした姿から「鯰尾」の異名を持つ。豊臣秀頼が好んで差したと伝えられる。

新藤五 国光(しんとうごくにみつ) 
    鎌倉時代後期(1293年から1324年頃)の相模国にて活動した。相州伝の開祖
粟田口六兄弟の六男、國綱の子

          詳細は、相州伝へ




山城伝と刀工:鎌倉時代 中期~後期~南北朝
来派(らいは)
来派とは
日本刀の刀工の流派の一つで、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて山城国で活動した。
主な刀工に国行、国俊(通称「二字国俊」)、来国俊、来国光、来国次らがいる。
来派は高麗からの帰化人を出自とするという。

また、南北朝前後に九州菊地へ移住したと伝わる「国村」を祖とする延寿派を始め、摂津の中島来一派等、来派の鍛刀技術は各地へ広まった。

作風の特徴
 体配
 太刀、短刀が多く、薙刀、剣をまれに見る。
 太刀は鎌倉中~末期の姿となる。
 細身の作もあるが、総じて身幅広く、反り高く、中切先が猪首となった姿のものが多い。
 反りは、刃長の中程に反りの中心がある鳥居反り(輪反り、京反り)となるものが典型的だが、国行などには踏ん張りがつき、腰反りとなるものもある。
 短刀は長さ尋常で重ね厚く、身幅狭く、フクラ枯れ、鋭いものとなる。振袖茎(なかご)も見る。
ただし、来国次などには寸延びの短刀(平造り脇指)も見る。

 地鉄
 小板目肌良く詰み、細かな地沸が一面につく。
 沸映りが見られるのもこの派の特色である。
 なお、鍛えの弱い肌が片面、もしくは両面の一部に現れることが多く、これを「来肌」と称して鑑定上の見所とされている。

 刃文
 直刃(すぐは)、あるいは直刃に小乱や小丁子を交えるものを基本とする。
 備前伝と比較して、刃縁の沸が強い。
 匂口深いものと匂口締まりごころのものがあるが、いずれも足、葉など刃中の働きの盛んなものである。
 帽子は直ぐに小丸、あるいは乱れ込み掃き掛けて小丸に返るものなど。


来国行
  人物
鎌倉時代中期の刀工で生没年不詳。来派の実質的な祖である
現存作は太刀が多く、短刀はほとんど見かけない。
銘字は「国行」2字に切り、「来」字を冠しない
作刀の体配は、鎌倉時代中期特有の、腰反り高く、幅広で、切先は中切先が猪首(いくび)となったものが多いが、やや細身の作もある。
刃文は、国宝の太刀のように直刃を基調に丁子を交える。

作刀
国宝 太刀  銘国行 (号 明石国行)
身幅広く、腰反り高く、中切先の鎌倉時代中期特有の体配であるが、国行の作中ではやや細身に属する。
地鉄は小板目つみ、やや肌立ち、刃文は広直刃調に丁子を交え、刃中の働きが盛んなものである。
明石松平家伝来のため「明石国行」の異名を持つ。


国俊 (二字国俊)
人物
国行の子とされる国俊には「国俊」と二字銘に切る者と、「来国俊」と三字銘に切る者がいる。
古来、同人説、別人説があるが、作風の違いから両者を別人と見る説が有力である。

銘を「国俊」と切る刀工を、「来国俊」と区別する意味で「二字国俊」と通称する。
「二字国俊」の作は来国俊の作に比べ、猪首切先で豪壮な作が多い。
弘安元年(1278年)銘の太刀があり、おおよその作刀年代が知られる。

作刀
太刀   銘  国俊  (東京国立博物館
  有馬家伝来で、国俊作中最も豪壮な作である。

短刀 銘 国俊 (名物 愛染国俊)  (法人蔵)


来国俊
  人物
鎌倉時代末期の刀工。国行や二字国俊に比べ、細身の穏やかな作が多い。
来国俊以降、短刀の作を多く見る。刃文は直刃を主体とし、乱れ刃の作でも小丁子。
正応から元亨(1288 – 1324年)に至る在銘作があり、この間同名2代があるとする説もある。
徳川美術館には「来孫太郎作」銘の太刀があるが、銘振りから「来孫太郎」は来国俊の通称とされている。

作刀
太刀  銘  来国俊  (個人蔵)
  細めの太刀で、小丁子に小互の目(こぐのめ)を交えた乱れ刃の作。庄内藩家老、菅家伝来。


来国光
人物
鎌倉時代末期から南北朝時代の刀工。来国俊の子とされる。
太刀姿は切先が延びた南北朝時代の作風を示すものが多く、来国俊よりは豪壮である。
作域は広く、来派伝統の直刃主体で小沸出来のものと、乱れ刃主体で沸の強い作とがあり、後者は正宗などの相州伝の影響を受けたものとされる。
年紀ある作刀は嘉元2年(1327年)から、元徳・貞和を経て観応2年(1351年)に及ぶ。
このうち、貞和・観応の作は銘振りの相違などから2代目の作とする説もある。

作刀
国宝  太刀   銘  来国光   嘉暦二年二月日(東京国立博物館)

国宝  太刀   銘  来国光  (九州国立博物館)

国宝  短刀   銘  来国光  (有楽来国光)(個人蔵)
  織田有楽斎が豊臣秀吉より拝領したもので、後、徳川家へ献上。


来国次
  人物
来国光の子または弟子と伝える。
来派の中では沸の強い乱れ刃を焼く異色の作風を示し、正宗などの相州伝の影響を強く感じさせる。
地刃ともに沸が強く、地鉄は肌立つものがあり、地景が目立つ点も相州風である。

作刀
国宝  短刀  銘  来国次  (個人蔵)


山城伝と刀工:鎌倉時代 後期~南北朝
長谷部派
 

長谷部国重
  人物
長谷部派の開祖。鎌倉時代末期から南北朝時代に活動した刀工。
正宗十哲の1人とされる。相模の新藤五(長谷部)国光の子とも言う。

作刀
国宝 刀  金象嵌銘長谷部国重 本阿花押 黒 田筑前守 (名物へし切長谷部
  製作当初は大太刀であったのが、後の時代に磨り上げ(切り詰め)られて刀に改められたため作者の銘はない(大磨上無銘)。
  しかしの本阿弥光徳より山城の刀工・長谷部国重の作と極められ(鑑定され)、金象嵌による鑑定銘が茎に入れられた。




参考資料
  『日本刀の歴史 古刀編』   金園社  2016 常石英明
『日本刀 五ヶ伝の旅 山城伝編』  目の眼 2015 田野邊道宏

『図解 日本刀事典―刀・拵から刀工・名刀まで刀剣用語徹底網羅』 (歴史群像編集部 2006)
『図説・日本刀大全―決定版』 (歴史群像シリーズ 2006 稲田和彦
『写真で覚える日本刀の基礎知識』  (2009 全日本刀匠会)
『日本刀の科学 武器としての合理性と機能美に科学で迫る』  (サイエンス・アイ新書 2016)
『日本刀の教科書』 (東京堂出版 2014 渡邉 妙子)

『銘尽』(めいづくし) 国立国会図書館 (http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288371)

 初載2018-9-29
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山城伝 
山城伝とは
五カ伝の一つで、山城国(京都)を中心に興った日本刀刀工の流派。
米子(西伯耆)・山陰の古代史