本阿弥家 米子(西伯耆)・山陰の古代史
元々、日本刀の研磨を生業とした一族。
その初祖は妙本とされるが、代々同朋衆として足利将軍家に仕え、刀剣の研磨を行ってきた。
やがて膨大な研磨資料から鑑定を行うようになり、十代光室の頃からその価値を記した折紙を発行するようになった。
本阿弥家
本阿弥家とは
南北朝期
足利尊氏に仕えたと伝えられる、本阿彌妙本を祖とする。

江戸期
本阿彌本家は、刀剣鑑定に折り紙(優れた物を「折り紙付き」と言うのは、これを語源とする)を発行する権利を徳川幕府より保証され、絶大な権限を持ち、他の刀剣研磨を生業とする者を町砥ぎと称するのに対し、家砥ぎと称する秘伝の研磨法を維持相伝した。

幕末期
武士の身分が消滅するに及んで、刀匠、刀剣研磨業も、衰退したが、武用より、美術鑑賞面を強調することにより命脈を保ち、美的面を強調し、地鉄をより黒く、刃をより白く見せる研磨法が本阿彌平十郎により考案され、その養子、本阿彌淋雅によってさらに発展され、その門人、平井千葉によって技法が確立されるに及んだ。
淋雅のもう一人の門人、本阿彌光遜によって、一般に刀剣鑑賞の裾野を広げる努力が行われ、秘伝とされた鑑定法、研磨法も公開されることになった。

戦後
平井千葉の実子で、本阿彌淋雅の養子になった、本阿彌日洲、本阿彌光遜の門人、小野光敬、永山光幹、また、昭和初期に鑑定家、刀剣商として知られた藤代義雄の弟、藤代松雄の4人が、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。


本阿弥家の系図
  宗家はじめ分家のいくつかは、明治以降に至って絶家となった。
分家の一つである光意系18代(妙本から数えて25代)の当主が、本阿彌光洲氏であり現在活躍している。
研師諸氏の系譜を紐解いていくと、幕末の頃の光意系本阿弥家に辿り着く。

本阿弥宗家の家系図

   初代:妙本−−足利尊氏に同朋衆として使えた。
   二代:本妙
   三代:妙大
   四代:妙秀
   五代:妙寿
   六代:本光
   七代:光心
   八代:光刹
   九代:光徳−−秀吉から刀剣鑑定所を免許される。この時代に差し込み砥ぎ研磨法、刀剣鑑定法を確立した。
   十代:光室−−光室の頃からその価値を記した折紙を発行するようになった。
  十一代:光温
  十二代:光常
  十三代:光忠−−八代将軍吉宗の命により、享保4年(1719年)11月に享保名物帳を献上。
  十四代:光勇
  十五代:光純
  十六代:光久
  十七代:光一−
  十八代:光鑑−
  十九代:忠明

光意系本阿弥家系図   

   初代:光意
   二代:光祐
   三代:光作
   四代:光茂
   五代:光理
   六代:光柳
   七代:九郎左衛門
   八代:政之丞
   九代:吉五郎
   十代:猪三郎
  十一代:光栄
  十二代:成章
  十三代:平十郎
  十四代:直之丞成応
  十五代:平十郎成重
  十六代:琳雅
  十七代:日洲 −(人間国宝)
  十八代:光洲 −(人間国宝)

補足:同朋衆(どうぼうしゅう)
室町時代以降将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと。
一遍の起した時宗教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされる。
阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれた。1866年(慶応2年)に廃止された。
時宗を母体としているために阿弥号を名乗る通例があるが、阿弥号であっても時宗の僧であるとは限らない。
観阿弥、世阿弥や、江戸幕府における同朋衆がその例である。


本阿弥家の人々
本阿彌妙本(ほんなみみょうほん)
南北朝-室町時代の刀剣鑑定家。
刀剣の鑑定・研磨・浄拭を家業とする本阿弥家の祖。
出自,事績はあきらかではないが,足利尊氏につかえて刀剣奉行となったともいう。
家譜では文和2年(1353)死去,享年百余歳。
はじめ同朋衆の習いで「妙本阿弥仏」と名乗っていたが、いつ頃からか前後の文字を取り「本阿弥」と名乗る。名は長春。


本阿弥光悦(1558年−1637年)
  人物
豊臣秀吉に用いられ,同家中興の祖とされる。本阿弥家の分家に生まれる。
刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥光二の二男二女のうち長男として生まれる。

初め子がなかった七代投手本阿弥光心の娘(妙秀)婿養子となったが、後に光心に実子(八代当主光刹)が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。

光悦もこうした刀剣関係の家業に従ったことと思われるが、手紙の中に刀剣に触れたものは殆どみられない。
京ではむしろ「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにその名を残す。

功績
芸術村(光悦村)を築いた
洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いた。
元和元年(1615年)、徳川家康から鷹峯の地を拝領し、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。
王朝文化を尊重し、後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりの深かった光悦を都から遠ざけようというのが、家康の真の意図だったとも言われるが定かではない。
光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。光悦の墓地も光悦寺にある。

琳派の創始者
光悦は若き俵屋宗達を見い出し、一流の芸術家に育て上げ、俵屋宗達との合作で『鶴下絵三十六歌仙和歌巻(鶴下絵和歌巻)』を世に出した。
俵屋宗達尾形光琳とともに、琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は大きい。

陶芸
陶芸では常慶に習ったと思われる楽焼の茶碗、漆芸では装飾的な図柄の硯箱などが知られるが、とくに漆工品などは、光悦本人がどこまで制作に関与したかは定かではない。



初載2018−10−8

参考資料
永山光幹 『日本刀を研ぐ―研師の技・眼・心』 雄山閣

Wikipedia 「本阿弥光悦」  「日本刀研磨」


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