伯耆国会見郡天万郷、鴨部郷(法勝寺・上長田・東長田周辺)、および出雲国能義郡
  会見郡                                能義郡

     
  

《伯耆国 会見郡の郷名》
 日下郷(県・大高周辺)
 細見郷(大幡周辺)
 美濃郷(日吉津・大和と厳の一部)
 安曇郷(尚徳周辺)
 巨勢郷(「地名辞典」旧岸本町坂長を中心とし、その北西下流部の八幡など旧五千石村の一部も含む地域、
       「米子市史」は長者原を巨勢郷とし、会見郡衙を同郷域に推定)
 蚊屋郷(厳と春日の一部)
 天万郷(手間・天津・大国周辺)
 千太郷(米子市古豊千周辺)
 会見郷(「地名辞典」五千石周辺で郡衙所在郷、「市史」は駅名の誤写説?)
 星川郷(賀野周辺)
 鴨部郷(法勝寺・上長田・東長田周辺)
 半生郷(旧成実村陰田から、旧西伯町との境界にあたる母塚山周辺)

《出雲国 能義郡の郷名》
平安時代以前は意宇郡の一角に区分されていた。

 母理郷 - 文理郷から神亀3年(726年)に改名した。現在の安来市伯太町の北部を除いた地域。
 屋代郷 - 現在の安来市伯太町安田山形、吉佐町、門生町辺り。
 舎人郷 - 現在の安来市中心部辺り。
 楯縫郷 - 現在の安来市宇賀荘町、清瀬町、清井町、九重町、清水町、早田町辺り。
 安来郷 - 現在の安来市安来町、宮内町、南十神町、黒井田町、島田町辺り。
 山國郷 - 現在の安来市上吉田町、下吉田町、鳥木町、柿谷町、折坂町、沢町辺り。
 飯梨郷 - 飯成郷から神亀3年(726年)に改名した。現在の安来市飯梨町、利弘町、飯生町、実松町辺りと広瀬町のほぼ全域。


伯耆国 会見郡 鴨部郷 (法勝寺・上長田・東長田周辺)
賀茂神社-1

 
所在地 南部町宮前  
 
祭神  阿遲鉏高彦根神・別雷神ほか

由緒
『三代実録』貞観9年(867)「伯耆国正六位上賀茂神従五位下」
「源頼朝下文案(賀茂別雷社御領荘園)」寿永3年(1184)に伯耆国星河庄、稲積庄の記載
当社の神宮寺・安楽寺には、「寛平九年(897)四月吉祥日安楽寺長倫雙以抜」とある数百巻の大般若経があったという。
現在もその幾巻が存する。

 

賀茂神社-2
所在地 
鳥取県西伯郡南部町倭3番

社格  郷社

祭神
別雷命、神武天皇、天照大御神、豊岩窻神、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命、素盞鳴命
境内神社:鷺神社 祭神 稲背脛命、磐長姫命、糺神社 祭神 玉依姫命
当社境内神社鷺神社はもと雲伯の国境渡太ノ峠と称する所に鎮座し古来疱瘡神として信仰厚く旧藩主池田氏の祈願所なりしと云ふ、又糺神社は本社と同時の創立の如し、元賀茂両社或いは賀茂下上大明神と称へたり。

歴史:鳥取県神社誌より
創立年月不詳かならざるも、京都賀茂別雷神社より御分霊奉遷して大平ル山の頂上に鎮座すると云ふ。
其の後同山の中腹小平と云ふ所に遷し、後又同山の麓に遷し奉ると云伝ふ。
尼子経久当国を領するに至り崇敬厚く社領凡百石を寄附せり、其外度々参拝して祈願、奉幣、社殿造営のことありしと云ふ、尼子氏滅亡と共に当社も次第に衰微せり。
後享保18年藩主池田氏より社領高十石を寄附せらる。
明治5年4月郷社に列せられる。
明治40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せられる。
大正5年5月
  大国村大字北方字宮ノ峠ノ山鎮座無格社北方神社(祭神 豊岩窻神 ) 
  同村大字原字客ノ前鎮座無格社小原神社(祭神 大己貴命、少彦名命)
同6年4月30日
  天津村大字阿賀字王子﨏山鎮座無格社阿賀神社(祭神 豊岩窻神、素盞鳴命) 
  同村大字同字トラベン神田鎮座無格社田辺神社(祭神倉稲魂命 )合併す。

補足:鳥取県神社誌より
建造物 本殿、幣殿、拝殿、隋神門、神楽殿、祭器庫、手水舎
境内坪数  3203坪
氏子戸数   320戸



鴨部周辺
  鴨部郷の郷域=法勝寺川・東長田川・山田谷川が形成する三つの谷を中心にした地域。

旧西伯町内でもっとも古墳が集中するのは鴨部地区で、集落の東西の尾根上に71基が分布する。
なかでも弥陀山古墳群は11基が分布し、内5基が前方後円墳で、後期の築造と考えられる。
尾根つづきに法勝寺城跡もあり、この山の直下の村が、鴨部の中心的地域であったと思われる。

その他、今長41基・馬佐良7基・掛相13基(2)・福頼13基・落合6基・徳永36基・絹屋39基(1)・西13基(2)・馬場37基・法勝寺11基・阿賀25基・原31基(1)・猪小路6基・北方7基・福成22基・早里山13基(2)・境9基・清水川9


弥陀山古墳群 カモ氏の奥津城か?
山田川と法勝川が形成する谷、現在の鴨部地区にある弥陀山に分布する。
5基の前方後円墳を含む11基の古墳で構成され、鴨部郷の中心的な拠点であった。

垣内神社 
祭神・素盞嗚命 鎮座地・ミダ山の麓 社殿なく、神木を依代として祀る。
この神社から古墳への道が辿れる。年4回地元の人々により祭りあり。


白山神社
  所在地 南部町賀祥
  
祭神  伊弉冊命・菊理媛命ほか
  
由緒  
㋑加賀白山の白山比咩神社の分霊を勧請。
㋺当社に伝わる鉄造聖観音立像の光背には元応2年(1320)の年紀と「大願主藤原氏女 大檀那藤原泰親 院主宗賀 大工道覚」の銘がみえる。
また本尊の十一面観音坐像の台座には至徳4年(1387)の年紀と「大檀那安芸守藤原義泰」の銘、大永3年(1523)の銘のある棟札には「目代佐藤備後守藤原秀信」の名がみえる。
泰親は長田庄地頭、義泰は山名氏家臣、秀信は尼子経久家臣で、いずれも長田庄を領有した在地領主。
㋩境内近くに阿弥陀堂があり、当社の神宮寺・豊寧寺の跡といい、『三代実録』貞観7年(865824日条の玄賓造立の「会見郡阿弥陀寺」の後身とする説がある。




出雲への国越えのコース
  古代官道コース 
   壺瓶山―尾高―坂長―天万―手間山→???  

『伯耆志』は、「世に聞ゆる天万ノ関趾は当村にあらず。彼関の事は柏尾村に記す」とし、柏尾村の条には「天萬関趾 村の西北の山中なり」とし、「上古此地方の総称天萬にて、その地の盡くる處に天萬関在りしなり。
此地以西は出雲国能義郡にて、今其處の村落を関村と号す。
故に此山路を関村越と呼ぶ」とし、㋑のコースを示す。  
関和彦氏は「柏尾の小鷹神社南側から入る緩やかで奥深く入る谷が注目される。
山の荒れた今も比較的スムーズに登ることができる」と、『伯耆志』説を高く評価する。  

現在の県境越えコース  
㋑手間山→柏尾地区→山路越え ←現在は使用されない。
㋺新山―安田関―安来市大塚(賀茂神戸) ……安田関は伯耆と出雲の国境、「手間剗」  
㋩阿賀―猪小路―母里  ←今回は㋩のコースを通過  
㊁長田神社―絹屋―守谷―井尻  
㋭長田神社―馬場―武信―伐株―須山―伯太町赤屋―比婆山

南部町三崎、標高83mの独立丘陵頂部にある全長108mの前方後円墳、墳頂からは法勝川流域を眼下に見下ろすことができる。
古墳時代中期、西伯耆最大の古墳で、この周辺を広域に支配する首長の墓であろう。



意宇郡東部の地域=飯梨川以東
  賀茂神戸
 「所造天下大神命の御子、阿遲須枳高日子命、葛城の賀茂社に坐せり。此の神の神戸なり。故、鴨と云ふ」      
 岸崎時照『出雲風土記抄』(江戸期の風土記研究書)によれば、当神戸は「大塚村四社大明神の社辺に当れり」とある。

現在の安来市大塚町丸山。
安来にも賀茂神社があるが、これは鎌倉初期に新たに賀茂神社の神領になった地で、風土記の賀茂神戸とは関係ない。
葛城の賀茂社は現在の高鴨神社のこと。
大和国葛上郡内の神戸郷・余部郷に鎮座。
隣接して日置郷(御所市朝妻の辺り)があり、出雲においても、賀茂神戸に隣接して日置臣志毗の舎人郷があるのは興味深い。
      
※関和彦氏は「四社大明神」が「賀茂神戸」に組み込まれたのかについて、安来市沢町の小字名のなかに、「加茂分」「カモフン」「カモ分」がみえ、その東側に隣接して野方(教昊寺)廃寺跡が位置することに注目している。
つまり、日置氏の治める舎人郷と賀茂神戸はまさに接している。

舎人郷 
 「志貴島宮御宇天皇(欽明)の御世、倉舎人君等が祖、日置臣志毗、大舎人と供へ奉りき。即ち是れ志毗が居める所なり。故、舎人と云ふ。即ち正倉あり」       

※舎人郷の日置氏が「倉舎人君」と呼ばれていたことは重要であろう。
意宇郡には、舎人郷のほか、近隣する山国郷、さらに山代郷、拝志郷の4カ所に正倉があったが、山国郷にも新造院を建立した日置部根緒、山代郷にも新造院を建立した日置君目烈の存在があり、拝志郷が忌部と関わるなら、日置氏と忌部は祭神・天太玉命を共有する関係にある。
これら正倉の全体的な管理に日置氏が関わっていた可能性が高い。
倉の管理については蘇我氏が名高いが、蘇我氏は葛城地域の領有過程で、日置氏も支配下に置いた。
その目的の一つが各地の倉の管理であった可能性もあろう。
こうしたことを勘案すると、賀茂神戸の成立と出雲におけるアジスキタカヒコ命神話の導入に、日置氏が深く関わっているのではないかと思われる。


教昊寺(きょうこうじ)跡
  出雲國風土記に唯一寺院として名前が記載されている。
  有「舎人」郷中。郡家正東25里120歩。建立 5層之塔 也。在 僧。"教昊"僧之 所造 也。
  散位大初位下上"腹首押猪"之祖父也。
「舎人郷の中にあり。家正東25里120歩。五層の塔を建立つ。僧あり。教昊僧が造りし所なり。散位(とね)大初位下・上蝮首押猪(かみのたぢひのおびとおしゐ)が祖父なり。」

ここから出土した新羅系の瓦といわれる物は、野方廃寺ともいわれる白鳳・奈良時代の寺院跡で、伯耆国向山古墳近くに発掘された上淀廃寺跡のものと酷似していると注目を集めている。



能義神社
  「野城駅。……野城大神の坐ししに依り、故、野城と云ふ」       

出雲の四大神(熊野大神・杵築大神・佐太大神・野城大神)の一つ。
本来は出雲の土着的なノギの神を祀っていたと思われるが、延喜式の時代には、アメノホヒ命を祭神とするように変化している。      出雲と伯耆の境に位置する屋代郷について、『出雲国風土記』は「天乃夫比命の御伴に天降り来ましし」天津子命の伝承を記す。
現在、支布佐神社が吉佐町に鎮座する。


カモ氏の基礎的考察  黒田一正記載
  ⑴各地のカモ氏

①会見郡鴨部郷の成立 
 古墳群との関係から、古墳時代後期にはカモ氏の進出があったと考えられる。  

②山陰におけるカモ氏の動向    
会見郡鴨部郷以外にも、以下のようなカモ氏の存在が確認できる。

 ㋑出雲国意宇郡の「賀茂神戸」
 出雲との国境をはさんで隣接する地域に賀茂神戸(和名抄では「賀茂郷」の記載)がある。

 ㋺伯耆国の「鴨神戸」 また伯耆にも鴨神戸(大和鴨都波社)が成立している。
 この鴨神戸の所在については、倉吉の小鴨川流域とするか、会見郡内にするか、二説がある。
 ※東伯耆のカモ神社 
 賀茂神社(倉吉市葵町、賀茂別雷神
、『三代実録』貞観9年(867)「伯耆国正六位上賀茂神従五位下」の上賀茂神に比定する説あり)・賀茂神社(三朝町森、阿遲鉏高日子根命)・小鴨神社(倉吉市大宮、大己貴命、京都賀茂御祖神社勧請)・上小鴨神社(倉吉市鴨河内、スサノヲ)

 ㋩福岡市の西光寺の鐘
  ㋺に関連して福岡市の西光寺の鐘の銘に「承和六年鴨部立造―伯耆国金石寺鐘……」とあり、この鴨部をめぐっても同様に二説ある。

 ㊁隠岐国のカモ氏
隠岐国周枳郡に賀茂郷がみえ、郷内には式内社の「加茂那備神社」(主祭神=別雷神)が鎮座する。また境内社と境外神社に大山祇命を祀る大山祇命神社が祀られているのは注目される。④で後述する摂津国の三島鴨神社(祭神=大山祇命)とどう関わるのであろうか。

③吉備に濃密に分布するカモ氏
  ㋑備前国赤坂郡軽部郷 鴨神社  祭神=別雷神・鴨建角身命・玉依日売命   
  ※宗形神社 赤坂郡周匝(すさい)郷    
  ※石上布都之魂神社 赤坂郡宅美郷   
  ★大和岩雄氏は、石上系の神社が「赤坂」郡に鎮座することと、大和の石上神宮の祭祀氏族である和邇氏が、和邇坐「赤坂」比古神社を氏神として祀ることは無縁ではなく、ともに赤い土=ベンガラ朱、あるいは鉄に関わる共通点があるとする。
 因みに和邇坐赤坂比古神社の祭神は吾田片隅命である。  

 ㋺備前国津高郡賀茂郷 鴨神社  祭神=別雷命    
   ※宗形神社 津高郡駅家郷付近  

 ㋩備前国児島郡賀美郷 鴨神社  祭神=味鉏高日子根命   
 ★新川登亀男氏は、吉備に展開する宗像と賀茂の重層に着目、鉄との関係を指摘し、伯耆の会見郡の宗像とカモの重層も同じ視点で捉えられる可能性を述べている。  

④全国的なカモ氏の動向との関係
  ㋑全国のカモ氏関連の郡名・郷名
    「カモ」名の郡名6郡、郷名27郷

   「カモ」名の郡・郷の成立時期    
    〇磐井の乱以前 葛城氏とカモ氏      
       雄略の葛城介入=5世紀末→カモ氏の山城移住=6世紀

    〇磐井の乱後の部姓郷の成立後    
       会見郡鴨部郷の成立=6世紀? 古墳後期     
   
    〇壬申の乱以後、
       藤原不比等と婚姻した賀茂朝臣比売の存在。
       藤原宮子の母、聖武天皇の外祖母という政治的位置から全国に展開  

 ㋺二系統のカモ氏 
カモ氏には、葛城賀茂氏系と山城鴨氏系があるが、この二系統のカモ氏を別の氏族とする考えもあるが、『山城国風土記』逸文では同系統としており、私案もこれに同調したい。
『山城国風土記』逸文「賀茂社」によると、カモ氏の祖・賀茂建角身命は神武の御前に立って(八咫烏伝承)、大倭の葛木山の峯に宿り、ここから山代国の岡田の賀茂に至り、山代河に沿って、葛野河と賀茂河の合流する地点に至った。
つまる、大和国葛城の賀茂から、山城国の岡田鴨神社→山城国の上・下賀茂神社という経路が述べられている。(山城国の秦氏の分布も似たような動きか?)   

 ㋩摂津のカモ氏
摂津国三島郡には、海人と関わる三島鴨神社(祭神=オホヤマツミ命・コトシロヌシ命)が鎮座する。鎮座地は淀川沿いの高槻市三島江である。
オホヤマツミ命を祀る神社で有名なのは、伊予国一の宮の大山祇神社(瀬戸内海の大三島に鎮座)、伊豆国の三嶋大社、そして当社であるが、この3社を三三島と呼ぶ。
『伊予国風土記』逸文によると、「祭神のオホヤマツミ命は一名「和多志の大神」といい、百済より渡来し、摂津の御嶋に鎮座した。
瀬戸内の大三島は摂津の三島の名である」とする。
論証は省くが、この伝承の背後には、摂津の三島鴨神社の祭祀氏族のカモ氏が、淀川周辺の海の民とむすんで、瀬戸内沿岸、あるいは太平洋沿岸に進出していった歴史があったと考えられている。
ちなみに前述した安曇江は、淀川を経由すれば指呼の距離である。
うした摂津のカモ氏と安曇氏などの海人が、淀川→瀬戸内→伊予→土佐へ展開していく。吉備など山陽側へのカモ氏の展開も、この動きと関連するのではないか?

  ⑵カモ氏の職掌  

①殿主寮殿部の負名氏族としてのカモ氏
殿主寮殿部(とのもりようとのべ)の負名氏族(なおいしぞく)として、日置(火置で灯燭に関係)・子部(帷帳を殿内にしつらえる)・車持(輿輩)・笠取(蓋笠)と鴨(薪炭)  鴨氏は「車駕行幸供奉(ぐぶ)」「秉燭(へいしょく)照路」→ヤタガラス伝承・薪炭。 主殿と主水司が未分化の大化前代に各地に設置されていた部を統括 中央で統轄していたのが鴨君→鴨朝臣であり、在地で管理したいたのが、鴨部首氏であった。 松原弘宣氏『古代の地方豪族』  

②氷室・薪炭とカモ氏
 ㋑氷室とカモ氏 
中村修也氏『秦氏とカモ氏』 『延喜式』主水司条によると、畿内周辺の氷室は、全部で10カ所あげられているが、その内の4カ所が山城国愛宕郡の小野氷室・土坂(はじさか)氷室・石前氷室・栗栖野氷室で、いずれも上賀茂周辺に存在する。
中村氏は、これら氷室で天皇への氷・水(モヒ)などの貢進をカモ氏が担い、さらにこれらの山々で薪炭を作成していたと述べている。
主水(もひとり)司としてのカモ氏については、美濃国に分布する鴨県主が注目される。
 
 ㋺美濃国のカモ氏
美濃国には二つの式内社・御井神社が鎮座する。
岐阜県養老郡養老町金屋(古代の多藝郡)と岐阜県各務原市三井町(古代の各務(かかみ)郡)である。
各務郡の御井神社は、美濃国と尾張国を分ける木曽川の流域に位置し、木俣神、あるいは御井津比売を祀る。
おそらくは『古事記』の影響であろう。
本来、御井神は宮中西院の北庁に祀られる座摩巫(いかすりのみかんなぎ)祭神の内の生井・福井・綱長井の三神のことである。
座摩巫祭神は宮殿の守り神であるが、とくに井戸に関わる神を御井神とするのは、宮中における日常の生活、さらに祭儀に使用される聖水の重要性を反映しているとされる。
美濃国武儀郡を本拠とする牟宜都君は、大嘗祭における御湯などに関わる主水司を務める氏族である。
この牟宜都君と鴨県主の関係は密接である。
元来、宮中の主水司役を担っていた鴨県主の後を引きつぎ、牟宜都君が主水司になったとされるからである。
この鴨県主が山城で祀るのが賀茂神社である。
賀茂神社は、賀茂別雷神社(上社)と賀茂御祖神社(下社)の二社からなる。『山城国風土記』逸文には賀茂社の縁起として、タマヨリヒメが丹塗矢に感応して男の子を生む「丹塗矢伝承」が記されているが、その丹塗矢を祀るのが別雷神社で、タマヨリヒメとその父母にあたる賀茂建角身命と丹波の神伊可古夜日売の三柱を祀るのが「三井の社」、つまり御祖神社だと記している。
賀茂神社の原点にも御井の神は深く関わっているのである。
美濃国のもう一つの御井神社は多藝郡に鎮座するが、近隣する安八郡にも加毛神社が祀られている。
祭神は県主神社と同じく彦坐王(日子坐王)で、この周辺も鴨県主氏の影響が及んでいたと思われる。
また安八郡には大海人皇子の湯沐邑が置かれ、太安万侶の父とされる多品治が湯沐令として赴任していた。
湯沐は皇族の領地とされるが、同郡内には壬生郷もあり、皇子養育に関わる聖なる水、あるいは産湯など由来するとも考えられる。
 
③鉄、あるいは開拓神としてのアジスキタカヒコネ命  
 ㋑吉備に分布するカモ氏
吉備に分布するカモ氏については前述したが、これらのカモ神社の周辺には、石上神系、伊福部系、宗形系、品部氏系などの神社と混在する。
新川氏も指摘するように、これらの氏族の吉備への進出は鉄の確保が重要な動機であったと思われる。
  
 ㋺開拓神=鉄の神としてのアジスキタカヒコネ命    
出雲国出雲郡杵築郷に展開する阿受伎社は実に41社が『出雲国風土記』に記載されている。
これは未開拓の地であった杵築地域が急速に開拓され、その開拓のシンボルとしてアジスキタカヒコネ命を祀る「アジキ社」が分布する結果となったと考えられる。
対蝦夷の最前線である陸奥国には、式内社の都々古別神社が3社祀られているが、祭神はいずれも、アジスキタカヒコネ命である。


現地視察後記 「カモを歩く」で見えてきたもの  黒田一正記載
  10月30日 現地めぐり カモを歩く 

当日は晴天に恵まれ、実りの多い探訪になりました。
内田さん、香田さん、中村さん、三原さん、八尾さん、黒田の6名と、今回は松江の川島芙美子さん(風土記を歩く会代表)とそのご友人を含め、8名の散策でした。
まずは南部町宮前と倭の二つの賀茂神社を訪れました。
宮前の賀茂神社では七五三を祝う家族に出会ったのが印象的でした。

三番目の探訪は、鴨部郷の中心地であるミダ山古墳群。
このミダ山を所有する磯田さん(元区長)のお宅にお邪魔し、ご夫婦から神木だけの垣内神社のこと、家のすぐ裏にある前方後円墳のこと、集落でお祀り(モウシアゲ)する七人の侍の祠のことなど、興味深いお話をうかがいました。
それ以後も、白山神社(これについても11月例会で少しふれます)、緑水園での昼食、県境越えをして伯太町、安来市大塚町丸山の賀茂神戸跡とされる四所大明神、教昊寺跡、能義神社、貴船神社をめぐりました。

さて、11月の例会は、この現地めぐりを経て、あらためて伯耆と出雲の境界付近に濃密に分布する「カモ」について、考えてみたいと思います。
前回も少しお話ししましたが、より具体的に、「カモ」とは何か、どんな職掌をもっていたのか、なぜ「カモ」が出雲と伯耆に集中するのか、鉄との関係はあるのか、などなど、皆さんと意見交換してみたいと思います。

 また今後の計画として、「たたらの火を見る」「会見と汗入の境を歩く──日下郷」(日下古墳群 尾高浅山遺跡 大神山神社 百塚原 中間神社 三輪神社 壺瓶山 日吉神社(サナメ神)……)などについて、ご希望をうかがいます。










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伯耆の古代を考える会 現地視察会-その2回 カモを歩く
2016-10-30(日)
前回は「アヅミ族」の原点を探るという観点から、西伯耆の旧天万郷、安曇郷、巨勢郷付近を中心に現地視察会を行いました。
今回は主に伯耆国会見郡天万郷、鴨部郷(法勝寺・上長田・東長田周辺)および、出雲国能義郡の賀茂氏ゆかりの旧跡を探訪致しました。