砂州について
砂州(さす)と砂嘴(さし)
砂州
湾の入り口(湾口)にできた砂嘴が発達し、対岸またはその付近までに至った地形。
内側には潟湖ができる。
また、砂州の変形として陸繋砂州(りくけいさす、トンボロとも呼ぶ)がある。
これは湾口にあるか否かに関らず、陸繋島と陸地をつなぐ地形である。

砂嘴
沿岸流により運ばれた漂砂が静水域で堆積して形成される、嘴(くちばし)形の地形のこと。
砂嘴が発達することで、対岸(その付近)までに至ると、砂州と呼ばれる。


日本の主な砂州・砂嘴
日本の主な砂州
  天橋立(京都府宮津市)
  弓ヶ浜(鳥取県米子市・同境港市)
  サロマ湖(北海道北見市・同常呂郡佐呂間町・同紋別郡湧別町)

日本の主な砂嘴
  三保の松原(静岡県静岡市清水区)
  野付半島(北海道標津町~別海町)
  住吉浜(大分県杵築市)



弓浜半島について
米子と弓ヶ浜
昭和40年頃までは、弓ヶ浜のあちこちで地引き網が行われていた。
白砂青松の景色だけではなく、夏は海水浴、魚釣りなど米子に住む者の思い出多き場所である。


弓浜半島の形成
旧石器時代
今から14000年前、最後の氷河期(ウルム氷河期)が終わる時点では、海水面は今より120m低かったと考えられている。
従って、この地域は中海も宍道湖もない陸地であった。

縄文時代
以降、気温の上昇に伴い海水面も上昇(縄文海進 +5m)、この地域にも海水が流入し、現在の島根県松江市周辺を境に東西に広がる2つの入江が形成された。

次に日野川の土砂が海流に乗って、東の入江の入り口付近に堆積、砂州が徐々に形成され、東の入江は閉じた水域に変わっていったた。
この砂州が弓ヶ浜半島、そしてこの水域が中海となった。
同じく西側の入江の入り口では島根県の斐伊(ひい)川から運ばれた土砂が堆積、海跡湖すなわち宍道湖の形成された。

弥生・古墳時代
海岸線が後退(縄文海退 -4m、弥生小海退 -2m)し、弓ヶ浜半島は完全に姿を表す。
その後海水面が再び上昇(ロットネスト海進 -1m)したことなどから、弓ヶ浜半島は島状の砂州となった。

飛鳥・奈良時代
弓浜半島は縞状の砂州。
出雲国風土記に登場する「夜見の島」という表記からも往時の様子がうかがえる。

平安時代
AD1000年頃、平安海進(+0.5m)が起こり、弓浜半島は再びその姿の一部を海中に隠す。
また、『更級日記』で真野の長者の家(現千葉県市川市)が水没した原因はこの海進であるとされる。

鎌倉・室町時代
パリア海退
により再び半島状の地形を表す。
応永5年(1398年)に成立した『大山寺縁起絵巻』には弓ヶ浜半島が描かれており、『境港市史』ではこれを鎌倉時代の様子ではないかと指摘している。

江戸時代
この夜見島が再び弓ヶ浜半島として復活したのは、中国山地で営まれた「たたら製鉄」によるものが大きいと考えられている。
たたら製鉄の原料となる良質の砂鉄を産出する中国山地は、たたら製鉄の一大生産地で、砂鉄はかんな流しと呼ばれる手法で山砂を水路に流し、軽い砂を下流に流して採取する。
大量の山砂は、水路から日野川へ、そして河口から海流に乗って夜見島周辺に堆積していった。
こうして夜見の島は段々と太く なり、ついには地続きとなり、現在の中海が形成された。
「日野川の自然」 (富士書店 2000 藤島弘純著) P45より引用


弓浜半島の歴史
古代
古くは島であったと考えられている。
『出雲国風土記』には「伯耆の国郡内の夜見の嶋」とあり、『伯耆国風土記』逸文には「夜見島」の北西部に「余戸里」(現在の境港市外江町付近)が存在したと記されている。

平安・鎌倉時代
半島の形成は平安時代以降であるとされ、これを裏付けるように半島全域から平安期の土器片が発見されている。
応永5年(1398年)に成立した『大山寺縁起絵巻』には弓ヶ浜半島が描かれており、『境港市史』ではこれを鎌倉時代の様子ではないかと指摘している。

室町時代
戦略上の重要な拠点として尼子氏・毛利氏などが争い、相次いで合戦が起きた。
文明3年(1471年)8月には境松合戦、永禄6年(1563年)11月には弓浜合戦などが起こっている。
その後は毛利氏の支配下に置かれ、吉川氏の管掌下にあった。
以前より半島北部の境・外江周辺は船の重要な寄港地の一つであり、戦国期には水軍の拠点でもあったという。

江戸時代
隣接する美保関と共に北前船などの寄港地に一つとして栄え、また漁業も盛んであった。



参考文献・資料等
「日野川の自然」 (富士書店 2000 藤島弘純)
「米子平野の縄文遺跡」 (伯耆文化研究会会誌1:21-29 1999 濱田竜彦)
「弓浜物語」 (伯耆文庫第6巻 今井書店 1989)
「ふるさとの古代史」 (伯耆文庫第9巻 今井書店 1994)
「大山をめぐる山々」 (伯耆文庫第4巻 今井書店 1988)
「鳥取県の歴史」 (山川出版 1997)

気候変動と考古学(熊本大学 甲元眞之氏)  
神戸市教育委員会 大阪湾の誕生  海水準変動(Wikipedia)  洪水マップ 


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弓ヶ浜半島 米子(西伯耆)・山陰の古代史 
鳥取県西部の米子市と境港市に連なる半島。
弓浜(きゅうひん)半島、夜見ヶ浜半島、五里ヶ浜ともいわれる。
全長約17km、幅約4kmの日本有数の砂州。日本海(美保湾)と中海を分ける。
外洋側には長い砂州がある。
国引き神話では島根半島を引き与せる綱として伝えられている。

上古は島であったが、その後も海水面の変化のためその姿を消したり現したりしていた。
完全に現在のような半島化したのは江戸の末期であるとも言われている。