中海について
中海と米子
昭和43年の干拓事業が本格着工するまでは、古来より米子の食を支える宝の海であったという。
また、安来港、米子港は大型船も寄港する通商の要でもあった。


中海について
地理
島根県の東部と鳥取県の西部にまたがって位置する。
弓ヶ浜と島根半島に囲まれている湖で、面積では日本で5番目に大きい。

日本海に開いた湾の入り口が、砂州によって塞がれてできた湖(潟湖)で、東は美保湾に通じており、西は大橋川を通じて宍道湖と繋がっている。
海と水路が繋がっているため、海水の約半分の塩分濃度を持った汽水湖で、海水魚、淡水魚とも同じ場所に生息している。
湖の中には島根県松江市(旧八束町)に属する江島と大根島があり、江島と鳥取県境港市は江島大橋で結ばれている。

大根島
中海に浮かぶ島。島の大きさは東西に3.3km、南北に2.2km、島の周囲は約12km。
今から約12万年ないし30万年前に形成されたと推定されている。

『出雲国風土記』には、杵築の御崎のたこを捕らえた大鷲がこの島に飛来したことにより「たこ島」と名付けられたとの言い伝えが紹介されている。
たこから太根(たく)そして大根(たいこ)と変化して今に至る。
一方、人参を大根とよびかえたのが島の名の由来という説もある。

『出雲国風土記』に「たこ島」という名前で記載があり、奈良時代当時は牧場として土地利用されていたようである。
その後、島の火山灰土質が高麗人蔘と牡丹の栽培に合っているので江戸時代より栽培が盛んになった。
尚、「たこ島」→「太根島」→「大根島」と変化したと考えられている。


中海の形成
旧石器時代
今から14000年前、最後の氷河期(ウルム氷河期)が終わる時点では、海水面は今より120m低かったと考えられている。
従って、この地域に中海等は無くまだ陸地であった。

縄文時代
BC5000年頃
縄文海進(+5m)により、古中海湾が形成され、現在の中海の原型が形作られたと考えられている。
この頃はまだ古宍道湾(現在の宍道湖)とは繋がっていなかったが、斐伊川の堆積砂によって古宍道湾の入り口が塞がると、宍道湖の水は古中海湾へと流れるようになった。
山間部から古中海湾沿岸にかけて縄文集落(堀田上遺跡など)が現れる。
宍道湖湾沿岸に縄文人出現する(菱根遺跡)。

次に日野川の土砂が海流に乗って、東の入江の入り口付近に堆積、砂州が徐々に形成され、東の入江は閉じた水域に変わっていったた。

弥生・古墳時代
BC800年頃
弥生時代になると、縄文海退と砂の堆積によって古中海湾の入り口に弓ヶ浜砂州が出現し、潟湖としての古中海が形成される。
海岸線が後退(縄文海退 -4m、弥生小海退 -2m)し、弓ヶ浜半島は完全に姿を表す。
その後海水面が再び上昇(ロットネスト海進 -1m)したことなどから、弓ヶ浜半島は島状の砂州となった。

飛鳥・奈良時代
740年頃
奈良時代には再び海水面が上昇し 砂州は水没。
中海は湾へと戻ル。
『出雲国風土記』には「飫宇の入海(おうのいりうみ)」として記述され、『万葉集』では安来の湊を「於保の浦」として記述されている。
「錦ヶ浦」などと呼ばれることもあった。
なお、弓ヶ浜はこのころ「夜見嶋(よみしま)」とよばれる島になっていた。
出雲国風土記に登場する「夜見の島」という表記からも往時の様子がうかがえる。

平安時代
AD1000年頃
平安海進(+0.5m)が起こり、弓浜半島は再びその姿の一部を海中に隠す。
また、『更級日記』で真野の長者の家(現千葉県市川市)が水没した原因はこの海進であるとされる。

鎌倉・室町時代
パリア海退
により再び半島状の地形を表す。
この時代以降に土砂の堆積や小氷期による海面の下降によって再び、夜見嶋が陸繋砂州となり、中海が形成されたと考えられている。
応永5年(1398年)に成立した『大山寺縁起絵巻』には弓ヶ浜半島が描かれており、『境港市史』ではこれを鎌倉時代の様子ではないかと指摘している。

江戸時代
この夜見島が再び弓ヶ浜半島として復活したのは、中国山地で営まれた「たたら製鉄」によるものが大きいと考えられている。
たたら製鉄の原料となる良質の砂鉄を産出する中国山地は、たたら製鉄の一大生産地で、砂鉄はかんな流しと呼ばれる手法で山砂を水路に流し、軽い砂を下流に流して採取する。
大量の山砂は、水路から日野川へ、そして河口から海流に乗って夜見島周辺に堆積していった。
こうして夜見の島は段々と太く なり、ついには地続きとなり、現在の中海が形成された。


中海の歴史
古代

鎌倉時代

室町時代
中海、弓ヶ浜は戦略上の重要な拠点として尼子氏・毛利氏などが争い、相次いで合戦が起きた。
文明3年(1471年)8月には境松合戦、永禄6年(1563年)11月には弓浜合戦などが起こっている。
その後は毛利氏の支配下に置かれ、吉川氏の管掌下にあった。
以前より半島北部の境・外江周辺は船の重要な寄港地の一つであり、戦国期には水軍の拠点でもあったという。

江戸時代
隣接する美保関と共に北前船などの寄港地に一つとして栄え、また漁業も盛んであった。
江戸時代の中海では肥料用の藻草が獲られていたが。

明治時代
中期に入りアカガイの養殖技術が確立すると、アカガイは中海の特産物として養殖が盛んに行われるようになった。

昭和
1963年4月
干拓淡水化に事業が開始された。
計画は干拓によって、農地等約2230haを造成し、その干拓地と沿岸周辺農地約7300ha分の農業用水確保を目的に中海を淡水化するというものだった。

1968年
本格的に干拓工事が始まる。

2002年
永らく凍結状態であった淡水化事業の中止を決定。

2009年3月
中浦水門の撤去は完了した。



参考文献・資料等
「鳥取県の歴史」 (山川出版 1997)
「日野川の自然」 (富士書店 2000 藤島弘純)
「米子平野の縄文遺跡」 (伯耆文化研究会会誌1:21-29 1999 濱田竜彦)
「弓浜物語」 (伯耆文庫第6巻 今井書店 1989)
「ふるさとの古代史」 (伯耆文庫第9巻 今井書店 1994)
「鳥取県の歴史」 (山川出版 1997)

気候変動と考古学(熊本大学 甲元眞之氏)  
神戸市教育委員会 大阪湾の誕生  海水準変動(Wikipedia)  洪水マップ 


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中海(なかうみ、ちゅうかい) 米子(西伯耆)・山陰の古代史
島根県松江市、安来市、八束郡東出雲町と鳥取県境港市、米子市にまたがる湖。
湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。
主に米子市で錦海と呼ぶこともある。

   面積86.2 km²  周囲長105 km  最大水深17.1 m  平均水深17.1 m