出雲国
出雲国とは
  現在の島根県東部にあたる。
雲州(うんしゅう)と呼ばれることもある(出羽国との重複を避けるため二文字目を用いる)。
延喜式での格は上国、中国。



沿革
古代
青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と、鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られた。
その後、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。

特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある。

考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式である四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もある。
これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力である。

この律令以前の出雲国の影響力は日本神話の各所に見られ、日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その精神的影響力は絶大であったとの見解が主流である。
しかし、やがてはヤマト王権に下ることとなり、それが有名な国譲り神話として『日本書紀』などに記されたと考えられる。
国譲りの交換条件として建立された出雲大社は、いまだに全国から参拝が絶えない。
更には、出雲大社の祭祀を執り行う出雲国造家(北島氏、千家氏)は、天照大神の第二子天穂日命の裔孫として、天皇家と同等の血統の長さを誇り、この「国造」と言う呼び名も古代律令に用いられていた官職名であることからその歴史の長さを読み取ることが出来る。
その後律令制の下では出雲国造の領域を元に、7世紀に設置された。

平安期
東部出雲(意宇郡)を朝廷に没収された出雲国造家は今の出雲大社がある西部出雲に中心を確定する。
東部出雲は荘園守護の管轄下となり、月山富田城(現:安来市広瀬町)を中心とし製鉄を支配し雲伯地方を押さえた戦国大名尼子氏を生み出すこととなる。

江戸期
松江藩が設置され東部出雲は松江、西部出雲は出雲国造の影響下に入ることとなる。
更には、松江藩傘下の東部では明治期に見られた廃仏毀釈の逆の影響が認められたりもする。
つまり上古より同じ出雲でも、東西の主権が別々の歴史的見解を残すため、出雲の歴史はわかりづらいものとなっているとの指摘がある。

補足:出雲国地名の由来
@八雲立つ出雲から連想される雲の源泉という意味。

A諸神の母神イザナミの神陵地があることから、「母から生み出された」地の「出母」からとする説。

B稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説る。

C歴史的仮名遣いでは「いづも」であり、出鉄(いづもの)からきたという説もある。


律令制下における郡
意宇郡(おうぐん) 能義郡(のぎぐん) 島根郡(しまねぐん)  秋鹿郡(あいかぐん)  縫郡(たでぬいぐん)  出雲郡(いずもぐん)
神門郡(かんどぐん)  飯石郡(いいしぐん)  仁多郡(にたぐん)  大原郡(おおはらぐん)

参照:各郡の詳細は「出雲国風土記−B(内容)」へ


国府・一宮など
国府
意宇郡にあり、松江市大草町に国府跡が発掘され公開されている(かつては現在の東出雲町阿太加夜神社周辺という説もあった)。
平安期には東部出雲(意宇郡)を朝廷に没収された出雲国造家は今の出雲大社がある西部出雲に中心を確定する。
東部出雲は荘園守護の管轄下となり、月山富田城(現:安来市広瀬町)を中心とし製鉄を支配し雲伯地方を押さえた戦国大名尼子氏を生み出すこととなる。

式内社
『延喜式神名帳』には大社2座2社・小社185座の計187座が記載されている。

大社
意宇郡の熊野坐神社(現 熊野大社、松江市八雲町)と出雲郡の杵築大社(現:出雲大社、出雲市大社町)で、どちらも名神大社である。

一宮
古代には熊野大社の方が上位で一宮とされていたが、中世に逆転し、出雲大社が一宮とされるようになった。
二宮以下は存在しないとみられるが、佐太神社(松江市鹿島町)を二宮とする説がある。

総社

総社は六所神社(松江市大草町)である。

補足:神無月
10月の異称の「神無月」は、その宛字から「神がいない月」と解釈され、全国の八百万の神々がこの月に出雲に集結し、縁結びなどの会議(神議り)をするという伝承がある。
これは中世以降、出雲大社の御師が全国に広めた説であるが、現在でも出雲では10月を「神在月」と呼び、出雲大社ほかいくつかの神社では旧暦10月10日ごろに神を迎える祭、その1週間後に神を送り出す祭が行われる。


古代出雲国に関する諸説
古代出雲の文化
弥生時代、古墳時代の出雲の国(現在の島根県東部および鳥取県西部)にある出雲平野、安来平野を中心にあった文化をさす。
現在考えられている古代出雲の広がりは律令制でいう出雲国+伯耆国と考えるのが妥当であり、初期の中心地は出雲と伯耆の国境近辺にあったと思われる。
大和朝廷の弱体化政策により、出雲と伯耆に分断されたと見るのが妥当とされている。

古代出雲と考古資料
墳丘墓・古墳
姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来る。
また、四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を生み出した。
古墳時代前期では、全国最大級の方墳である大成古墳・造山一号古墳にその繁栄の後がうかがえる。

出雲西部の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るが、豊富な神話、各地からの大量の出土品、古墳の種類の豊富さから、この地域に古くから栄えた大きな勢力があったことは確実であるとされている。
その謎を解明するかに見られた「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」からのこの大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説が無い。

青銅器
青銅器の原材料にしても、朝鮮半島産であるとするもの、島根半島の西部の銅山の産出であるとするものなど、いずれにしても特定は出来ておらず、地元の出雲地方ですら統一した見解が出されていない。

鉄器
鉄器については、山間部で時代の特定できない「野だたら」の遺跡が数多く見つかっている。
特に遺跡が多いのは県境付近であり、たたら製鉄に欠かせない大量の木炭の確保は欠かせなかったものと考えられる。
西部地方は後に衰えを見せるが、出雲東部では妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開をしたと考えられている。

古代出雲と各地域との交流
楽浪郡との交流
中国の植民地で朝鮮半島北部にあった楽浪郡(紀元前108年 - 313年)との交流があったと考えられている。
壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡、任那と壱岐、古代出雲の間の交流を示す。
より直接的な例としては、弥生後期(2世紀前半)の田和山遺跡(島根県松江市)出土の石板が楽浪郡のすずりと判明している。
楽浪郡には中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味する。

日本国内諸国との交流
邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。
また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。
記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。

例えば、江戸期における大名の参勤交代などは、神無月に出雲へ全国の神々が出雲に参集し会議を行うことをモデルとしたと考えるのが合理的であるとの指摘がある。
暦の名称や、和歌、相撲の起源などもここに求められるという説もある。

古代出雲の衰退
宗教で纏め上げられた合議的連合政体は、武断的ピラミッド組織をもつヤマト王権の政体にとって変わられたとする見解があり、それが有名な「国譲り」の物語として今に伝わっているとしている。
神話に登場する国譲り神話は、この国造家がその権威を大和朝廷から次第に剥奪され、ついには出雲大社の神官というだけの地位までになり、意宇郡の大半の権利を平安期に剥奪され、現在の大社町を中心とする西出雲に押し込められた形となった経緯を神話として今に伝えていると考えられる。

その後、ヤマト・吉備連合政権の物部氏の侵攻によってヤマト政権に従属したとの説や、それでは記紀に記された膨大な出雲の活躍が説明できないとして、ヤマト政権樹立のため協力し大和へ一部が移住した(これが物部氏、蘇我氏に相当する)との説もある。



石見(いわみ)国
石見国について
現在の島根県の西部にあたる。
石州
と呼ばれることもある。延喜式での格は中国、遠国
石見地方をさらに細分して、大田市を中心とする東部地域を「石東地方」、江津市や浜田市を中心とする中部地域を「石央地方」、益田市を中心とする西部地域を「石西地方」と呼ぶことがある。


沿革
7世紀に設置された。


律令制下における郡
安濃郡(あのぐん)
郡名は伊勢国安濃(あのう)郡の人、安濃宿禰の末裔が移住したことに因む(『三代実録』)。

邇摩郡(にまぐん)
現在の太田市周辺。

那賀郡(なかぐん)
石見国の中央部に位置し国府が置かれるなど中心的な存在であったことから「(なか)」と名付けられた。
後に「那賀」と佳字二字令により改められた。

邑智郡(おおちぐん)
郡名は、かつてこの地に拠点を持った豪族『大市氏(おおうちし)』に因むとも、小盆地を意味する『大内(おおうち)』が訛ったものとも、「落ち窪んだ地」という意味の『落ち地』が訛ったものとも言われ、諸説が存在する。

美濃郡(みのぐん)
益田市中心部の地形である、三本の川によって形成された平地という意味から「三野」「美野」「美乃」などを経て「美濃」と変化したと伝えられる。

鹿足郡(かのあしぐん)
承和10年(843年)、隣接する美濃郡から鹿足・能濃(のの)の2郷を分離して成立した。
郡名の由来としては、かつてこの地で暴れていた八角八足の怪鹿を江熊太郎という勇者が退治したことに因むと言われる。

国府・一宮など
国府
国府は那賀郡にあった。現在の浜田市国分町(こくぶ、国府)や、下府町(しもこう)辺り、と推定されている。
延喜式神名帳には小社34座34社が記載されている。

一宮など
一宮は物部神社(大田市川合町)
二宮は多鳩神社(江津市二宮町)
三宮は大祭天石門彦神社(浜田市相生町)
総社は伊甘神社(浜田市下府町)境内社の庄社である。


隠岐国
隠岐国について
現在の島根県の隠岐島にあたる。
隠州と呼ばれることもある。延喜式での格は下国、遠国。

沿革
旧石器・縄文時代
隠岐島後(どうご)の西郷町津井と五箇村久見には、打製石器の原料としての黒曜石を産出する。
津井の近くに宮尾(みやび)遺跡が、久見の近辺に中村湊(なかむらみなと)遺跡がある。これらに遺跡は石器製作跡と推測されている。

弥生時代後期
水稲栽培が島に入り、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現する。
隠岐には約200基の古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(全長47メートル)がある。

大化の改新以前
大化改新以前に億伎国造が設置され、玉若酢命神社宮司家である億岐家が国造家であったと考えられている。
隠岐国設置の年代は不明だが、大化改新後全国に国郡が置かれた時から存在したと考えられる。
また、当時の木簡には「隠伎国」と記しているものもあり、設置当初にはこの名称が使われていた可能性もある。

大化改新後
隠岐国府は弥生時代から諸島最大の中心地であった島後の八尾川下流に置かれたが、具体的な所在地については下西の台地にあてる甲ノ原説と八尾平野に当てる説がある。


各地域との交流
日本海の孤島隠岐は古代から渤海や新羅との交渉も記録されている。

763年には渤海から帰国する日本使節・平群虫麻呂の一行が日本海で遭難して隠岐に漂着した。
825年には渤海国使高承祖ら103人、861年には渤海国使李居正ら105人が隠岐国に来着している。

日本と新羅との関係が緊張すると隠岐国にも影響があり、869年には隠岐に弩師(弓の軍事教官)が置かれ、870年には出雲、石見、隠岐に新羅に対する警備を固めるよう命令が出された。

888年には新羅国人35人が隠岐に漂着、943年には新羅船7隻が寄着するなど現実に新羅との交渉が生じた。


律令制下における郡
知夫郡(ちぶぐん)・・・・知夫里島及び西ノ島
宇良(うら)郷、由良(ゆら)郷、三田(みた)郷

海士郡(あまぐん)・・・・中ノ島
海部郡とも書いた。
布施郷、海部(あま)郷、佐作(さつくり)郷

周吉郡(すきぐん)・・・・隠岐島後(どうご)南部
賀茂郷、庵可(あむか)郷、新野(にいの)郷
7世紀後半に、評制の次評として建てられた。
701年に次郡となり、713年に周吉郡と改称したと推定できる。

穏地郡(おちぐん)・・・・隠岐島後北部
都麻(つま)郷、河内(かむち)郷、武良(むら)郷


国府・一宮など
国府
周吉郡にあった。
現在の隠岐郡隠岐の島町(旧・西郷町)と推定されるが、遺跡はまだ見つかっていない。

式内社
大社4座4社・小社12座11社の計16座15社が記載されている。
大社は全て名神大社

大社
知夫郡 由良比女神社(隠岐郡西ノ島町浦郷)
海部郡 宇受加命神社(隠岐郡海士町)
穏地郡 水若酢命神社(隠岐郡隠岐の島町)
穏地郡 伊勢命神社(隠岐郡隠岐の島町)

一宮
水若酢命神社

総社
玉若酢命神社(たまわかすみことじんじゃ)



参考資料  
「島根県の歴史」 (山川出版 1997)
「出雲国風土記」 (講談社学術文庫 1999 萩原千鶴)) 
「出雲国風土記と古代遺跡」 (山川出版 2002)

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