福岡県の遺跡
板付遺跡(いたづけいせき)
所在地  
福岡市博多区板付

古墳概要
日本最古の水稲耕作跡である。
低台地上の環濠集落と周辺の沖積地に広がる水田跡、墓地などが見られる。

年代
縄文時代晩期から弥生時代後期

出土品
甕棺内から青銅製の矛や剣が出土した。

補足
これをもって最古の弥生文化(早期)が始まる。


津屋崎古墳群(新原・奴山古墳群) 

所在地  
福岡県福津市勝浦(新原・奴山地区一帯)

古墳概要
5基の前方後円墳を含み41基の古墳からなる古墳群。

年代
5〜6世紀頃の築造と考えられている。

出土品


補足
近くには宮地嶽神社、宗像大社が位置する。
安曇族に関わる遺跡群という説もある。

福津市教育委員会HPから引用




金印公園と金印 

金印公園所在地  
福岡市東区志賀島

金印公園概要
博多湾に面した叶崎にある公園。
この場所で発見された国宝の金印にちなんだ石碑が建てられている。
九州帝国大学の中山平次郎が現地踏査と福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料から、その出土地点を筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)と推定した。
その推定地点には1923年(大正12年)3月、武谷水城撰による「漢委奴國王金印発光之処」記念碑が建立された。
その後、1958年(昭和33年)と1959年(昭和34年)の2回にわたり、森貞次郎、乙益重隆、渡辺正気らによって志賀島全土の学術調査が行われ、金印出土地点は、中山の推定地点よりも北方の、叶ノ浜が適しているとの見解が提出された。

金印とは
純金製の王印で、印文は「漢委奴國王」。
質量108.7グラム、体積6cc、比重約8.1、貴金属合金の割合を銀三分、銅七分を常とする伝統的事実からして22.4Kと算定した。
蛍光X線分析によると、金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他不純物として水銀などが含まれ、中国産の金と推定される。
      
福岡市博物館HPより引用

発見の状態について
江戸時代天明年間(天明4年2月23日(1784年4月12日)とする説がある)、水田の耕作中に甚兵衛という地元の百姓が偶然発見したとされる。
発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説もある。
一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。すなわち金印は単に土に埋もれていたのではなく、巨石の下に隠されていた。発見された金印は、郡奉行を介して福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥は『後漢書』に記述のある金印とはこれのことであると同定したという。
なお、糸島市の細石神社には、「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたが江戸時代に外部に流出したとの伝承(口伝)がある。

印文と解釈
「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じる説。
倭の「奴国」を現在の那珂川を中心とする福岡地方に比定した。教科書などでも一般的にはこの説が通説となっている。

「委奴」を「いと」と読み、「漢の委奴(いと)の国王」とする説。
「委奴の国」を『三国志』「魏書東夷伝倭人の条」の伊都国に比定する。

偽造説
形式・発見の経緯に不自然な点があるとして、近世に偽造された贋作であるとの説が、これまで幾度も唱えられてきた。
考古学的にいえば、出土がこれほどまでに不明確なものは本来ならば史料として扱うのは困難である。
それが、史料として扱われてきたのは、ひとえに、『後漢書』の「印綬」がこれであるという認識のみからに他ならない。

@偽造説の根拠(三浦佑之による説)
    発見時の記録にあいまいな点が多いこと
    江戸時代の技術なら十分贋作が作れること
    ?王之印に比べると稚拙
 などの点を根拠に亀井南冥(金印の鑑定者)らによる偽造説を唱えた

A偽造説に対する反証(高倉洋彰による説)
漢代の一寸の実長が判明するまでには長い研究の積み重ねが有り、これが実証されたのは20世紀も後半である。
江戸時代以前に知ることは困難で、官印の拓影や封泥などを測れば分かりそうに思えるが、出回っていた印譜集などを測ってもまちまちな数字になってしまう。
もし、贋作者が漢代の官印が方一寸であるのを知るとしたら『漢旧儀』から得たとしか考えられないが、その『漢旧儀』に蛇紐は載っていない。
もし偽物を造るなら、『漢旧儀』に載った亀紐か、駱駝紐にするはずである。
また、蛇紐には前漢から晋代までの時代により明確に4段階に分けられるが、漢委奴國王印はその変遷と矛盾しない。江戸時代に、蛇紐の時代的変遷を知ることは不可能である。

その他にも金印の真偽を争う諸説が存在するが、現段階では本物説の方が主流と言える。



岩戸山古墳
所在地  
福岡県八女市八女

古墳概要
八女(やめ)古墳群にある岩戸山と呼ぶ前方後円墳。
全長約135メートル、後円部径約60メートル、前方部幅約90メートルの前方後円墳。
釈日本紀』(しゃくにほんぎ)に引用されている『筑後国風土記』(ちくごのくにふどき)逸文に、古墳の位置、所在、古墳の主の名、古墳の規模や特色などが簡潔に書かれている。
その引用文から北部九州を支配していた筑紫国造磐井の墓であると考えられるようになり、やがて定説となった。

築造年代
6世紀前葉

出土品
大量の石人、石馬が発掘され、磐井氏の繁栄ぶりを示している。

補足
磐井は、527年(継体21年)に近江臣毛野が6万の大軍を率いて任那に向かおうとした時に、肥・豊の兵を動員して政府軍を阻んだ。
そこで翌528年(継体22年)物部麁鹿火(もののべのあらかい)に惨殺された。
ここまでは『日本書紀』に記された内容であるが、一方で磐井は「惨殺」されずに生き延びたという話が地元に残っている。



熊本県の遺跡
江田船山古墳
所在地  
熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)

古墳概要
所在する清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳で、75文字を銀象嵌(ぎんぞうがん)で記した大刀が出土したことで有名な前方後円墳。
古墳の周りには、短甲(上半身を守るよろい)を着けた武人の石人が配置されている。
このような古墳の周りに石人・石馬を配置するという独特の型式は、石人山古墳(筑後市、130メートル)に始まり、6世紀前葉の岩戸山古墳(八女市、132メートル)で最盛期を迎え、以後、消滅する。

築造年代
5世紀末から6世紀初頭

副葬品
内部から総数92点にも及ぶ豪華な副葬品が検出された。
この中に全長90.6センチメートルで、茎の部分が欠けて短くなっているが、刃渡り85.3センチメートルの大刀があり、その峰に銀象嵌(ぎんぞうがん)の銘文があった。
字数は約75字で、剥落した部分が相当ある。
おおよその内容は推察できるものの、今一つはっきりしたところがつかめない。
       参照:鉄剣・鉄刀銘文

補足
江田船山古墳も筑紫君一族の配下に連なって地域の中首長の墓であったことが想像できる。
被葬者ムリテは雄略の宮廷で役所に勤務する文官「典曹人」として仕えた。
また、東国の稲荷山古墳の被葬者ヲワケは宮廷の親衛隊長「杖刀人首」として仕えた。


佐賀県の遺跡
吉野ヶ里遺跡
所在地  
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町−神埼市にまたがる

遺跡概要
弥生時代の環濠集落。
外壕と内壕の二重の環濠をもち、V字型に深く掘られた総延長約2.5キロメートルの外壕が囲んでいる範囲は約40ヘクタールにもなる。

年代
弥生早期(BC300年頃)  
佐賀県吉野ヶ里に人が暮らし始める。

弥生前期(BC300−200頃)
吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。
また、南のほうの集落に環壕が出現する。

弥生中期
中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。
集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。
また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。
大きな憤丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い憤丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されている。

弥生後期(AD50年−AD200年頃)  
吉野ヶ里最盛期。(約60ha)
環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、集落は最盛期を迎える。
北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。

AD250年頃  吉野ヶ里衰退。
古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。
3世紀中ごろには、集落はほぼ消滅して離散してしまう。
このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。

遺物
多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土している。
九州で初めてとなる銅鐸が遺跡の周辺部で発見された。
九州北部で製造されたと推定されており、形状から福田型銅鐸とみられている。

補足
出土した遺構や出土品には、九州北部をはじめとした日本各地のものと共通・類似した特徴を持ったものが見られるが、中国大陸、朝鮮半島、南西諸島と共通・類似したものも多く見られており、吉野ヶ里への渡来人の来航や吉野ヶ里から各地域への渡来によるものとみられる、さまざまな面での共通性が見られる。


長崎県の遺跡
原の辻遺跡
所在地  
長崎県壱岐市

古墳概要
楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示す。

築造年代

副葬品

補足


宮崎県の遺跡
西都原古墳群
  所在地  
宮崎県西都市大字三宅西都原

古墳概要
3世紀前半〜3世紀半ばから7世紀前半にかけてのものと推定されている、東西2.6Km、南北4.2Km、日本最大級の古墳群。

標高70メートル程度の丘陵上に形成されている。
現在、高塚墳311基が現存し、その内訳は
     前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基である。
他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。
西都原古墳群は地形的に西都原台地上と、西都原台地と市街地との間に位置する中間台地上の二地域に区分でき、その中で更に11の集団に分けることができる。


    
宮崎県西都市HPから引用

西都原台地上
第1集団
台地の東南部地帯。古墳群内で最大の群集地域。前方後円墳7基を含む計91基。
姫塚(202号墳)など。

第2集団
台地の東側縁辺部に一列に形成。
前方後円墳10基を含む計36基。

第3集団
台地の北部に形成。前方後円墳1基を含む計86基。

第4集団台地上でも一段高い丸山丘陵の東側裾部に築かれた「男狭穂塚」「女狭穂塚」とその陪塚。

第5集団台地のほぼ中央に位置する、
古墳群内唯一の横穴式石室墓「鬼の窟古墳(206号墳)」とその周辺の3基。
平成7年の調査で横穴墓も確認。

第6集団
台地の西側、寺原丘陵一帯に築かれた古墳。前方後円墳3基を含む計16基。

第7集団
寺原集落地域内の古墳。前方後円墳1基を含む計12基。
ただし、この前方後円墳は道路によって切断されている。

中間台地上
第8集団
堂ヶ島微高地・童子丸台地上一帯の円墳。

第9集団
宮崎県立妻高等学校及び日向国分寺のある諏訪地域の古墳。
前方後円墳2基を含む計20基。

第10集団
三宅集落丘陵の上・下尾筋地域の古墳。前方後円墳5基を含む計18基。

第11集団
三宅丘陵南部の沖積層である鳥子地域に築かれた古墳。
前方後円墳1基を含む計4基。

築造年代
五、六世紀の成立と推定される。

副葬品

補足
西都原古墳群最大級の2つの古墳「男狭穂塚(おさほづか)」と「女狭穂塚(めさほづか)」は、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの墓とも伝えられている。
男狭穂塚と女狭穂塚


西都原の古墳群 


参考資料
「考古学事典」 (三省堂)
Wikipedia 「金印」 「漢委奴国王印」


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