隠岐国(おきのくに)の神社  
隠岐の島
島根県に所属する島々る。
隠岐諸島は大小180余りの島々から成り立つ群島型離島。
島前三島と呼ばれる知夫里島(知夫村)、中ノ島(海士町)、西ノ島(西ノ島町)と、、「島後」は島前三島から島後水道を隔てた島後島(隠岐の島町:旧西郷町)の一島から構成される。

隠岐国
山陰道に位置する。
現在の島根県の隠岐島にあたる。隠州と呼ばれることもある。延喜式での格は下国、遠国。
僻遠の地にもかかわらず名神大社が多いのは新羅に近いため、国防上の見地から朝廷の尊崇を受けたためとされる。

隠岐国の郡郷
和名抄によれば、隠岐国は4郡、12郷に分かれていた。
 知夫郡(ちぶぐん)・・・・知夫里島及び西ノ島
   宇良(うら)郷、由良(ゆら)郷、三田(みた)郷
 
 海士郡(あまぐん)・・・・中ノ島
   海部郡とも書いた。
   布施郷、海部(あま)郷、佐作(さつくり)郷

 周吉郡(すきぐん)・・・・隠岐島後(どうご)南部
   賀茂郷、庵可(あむか)郷、新野(にいの)郷
   7世紀後半に、評制の次評として建てられた。
   701年に次郡となり、713年に周吉郡と改称したと推定できる。

 穏地郡(おちぐん)・・・・隠岐島後北部
   都麻(つま)郷、河内(かむち)郷、武良(むら)郷

隠岐国の神社
延喜式神名帳には大社4座4社・小社12座11社の計16座15社が記載されている。
大社は全て名神大社。
知夫・西ノ島の神社
由良比女神社(ゆらひめじんじゃ)
所在地
島根県隠岐郡西ノ島町浦郷922
知夫里島から遷座

社格
式内社(名神大) 隠岐国一宮 村社

祭神
主祭神=由良比女命
延喜式神名帳には「元名 和多須神」とあり、そこから祭神は海童神あるいは須世理比売命とも言われる。
『袖中抄』、『土佐日記』には「ちぶり神」とある。

歴史
創建年代=創建の由緒は不明
六国史の初見は『続日本後紀』承和9年(842年)9月14日条の「隠岐国智夫郡 由良比売命神(中略)官社に預かる」という記述。

補足
隠岐島は大陸交通の要所であり、島内のほかの神社とともに朝廷からの尊崇を受け、延喜式神名帳では名神大社に列している。
中世以降、江戸時代中期までは衰微していた。


大山神社(おおやまじんじゃ)
所在地
島根県隠岐郡西ノ島町美田174

社格
式内社(小) 旧村社

祭神
主祭神=大山祇命
本来は「大山(おおやま)」と称されていた焼火山を神体とし(神体山)、山自体を祀るものであったとされている。

歴史
創建年代=不明
上述したように元来は神体山としての大山(焼火山)を祀る神社として創祀されたと見られている。

補足
なお、鎮座地の西方200mには古墳時代中・後期の祭祀遺跡と見られる兵庫遺跡(へいごいせき)があり、農耕に係わる水または泉の祭祀が行われていたと推測されているが、当神社との関係は不明である。


海神社(あまじんじゃ)
所在地
島根県隠岐郡西ノ島町別府409

社格
式内小社・旧村社

祭神
主祭神=不明

当神社の文献上の初見は元禄16年(1703年)の『島前村々神名記』で、そこに「別府村 六社大明神」と載せてこれを式内「海神社」に比定し、「志賀三社一座、住吉三社一座」を祀るとしている。
『式神名帳』の2座を綿津見三神と住吉三神に充て、それぞれ3柱の計6柱を祀るとする訳で、明治2年(1869年)の『島前旧社取調帳』にも9寸程の神像が6躯あると報告されている。
また、明治初めの当神社神主の報告には、明治まで祭神を「ワタツミノカミノヤシロフタクラ」と唱えて来たともいうが、明治5年に式内「海神社」と定められて以来、「祭神不詳」とされている。
なお、上記『旧社取調帳』には神像6躯とは別に紐鏡が2面あると報告されているので、当神社が確かに式内社であればこの紐鏡2面が本来の「海神社 二座」の御霊代であった可能性があり、古唱の「ワタツミノカミノヤシロフタクラ」は「少童神、二座」を意味するもので、本来の祭神は少童神であった可能性が指摘されている。

歴史
創建年代=不明
本殿の背後に古墳があり、境内隣接地からは黒曜石製の石鏃等が出土していることから、古くからの社地であったらしく、事実式内社であるとすれば先住の海人が祀ったものとも思われる。

補足
@ワタツミ(ワダツミとも)
日本神話に登場する海の神である。綿津見、少童神と書かれるほか、海神(わたのかみ)などとも書かれる。

A神職
代々宇野氏が世襲して来た。
宇野氏は本姓藤原氏で、天正頃(16世紀末)に豊臣秀吉に追われて隠岐へ来島、寛文年中(17世紀後葉)から奉仕するようになったと伝えるが(『旧社取調帳』)、明治初年に職を離れた。



中ノ島(海士町)の神社
宇受賀命神社(うずかみことじんじゃ)
所在地
島根県隠岐郡海士町宇受賀747

社格
式内社(名神大)・旧郷社

祭神
主祭神=宇受賀命
他に見えない当神社独自の祭神で、「宇須賀宮」、「宇津賀大明神」などと称されもしたが、一貫してこの地の守護神として祀られて来た神である。
神名は鎮座地「宇受賀」とも関係するものであろうが、語義不明。
なお、元禄16年(1703年)の『島前村々神名記』には、祭神を「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」と記してあるが、これは「記紀」に載せる神名に付会させたものであろうとされる。

歴史
創建年代=不明

補足
続日本後紀』承和9年(842年)9月乙巳(14日)条に由良比女命神(現由良比女神社)、水若酢命神(現水若酢神社)とともに官社に預かったことが見え、隠岐国ではもっとも早く中央の史書に現れる神社の1社で、延喜の制では国幣大社(名神大社)に列した隠岐国4大社の1社でもあり、『隠岐国神名帳』にも「従一位宇酒賀大明神」と記載を見る。



周吉郡・穏地郡(隠岐島後)の神社
水若酢神社(みずわかすじんじゃ)
所在地
島根県隠岐郡隠岐の島町郡723

社格
式内社(名神大)・隠岐国一宮・旧国幣中社・別表神社

祭神
主祭神=水若酢命(みずわかすのみこと)
配祠=中言神(なかことのかみ)、鈴御前(すずごぜん)

歴史
創建年代=不詳
社伝によると仁徳天皇の時代の創建と伝えられる。
国史では、承和9年(842年)に隠岐国の他の3社とともに官社に預かったと『続日本後紀』に見えるのが初出である。
延喜式神名帳には「穏地郡 水若酢命神社 名神大」と記載され、『隠岐国神名帳』には「正三位」とある。

補足
隠岐島後(どうご)北部、重栖(おもす)川上流に位置し、旧穏地郡の郡家所在地と考えられている。
周囲には小規模な古墳もあり、古くから隠岐北部の中心であった。


伊勢命神社(いせみことじんじゃ)
所在地
島根県隠岐郡隠岐の島町久見字宮川原375

社格
式内社(名神大)・旧郷社

祭神
主祭神=伊勢命
他に見えない隠岐国独自の神であるが、その神名や磯部との関係から、海人を介して伊勢地方と深く繋がる神であろうとされている。

歴史
創建年代=不明
伊勢族が隠岐島に来住した当初、毎夜に海上を照らしながらやって来る神火(怪しい火)があり、それが現鎮座地の南西5.5km隔たった字仮屋の地に留まるので、その地に小祠を建てて祖神である伊勢明神を勧請奉祭したところ神火の出現も止んだといい、その祠を後に現在地に遷座したものであるという。

補足磯部について
正倉院文書の天平4年(732年)『隠岐国正税帳』には役道(穏地)郡の少領として磯部直万得という名が見え、また島前ではあるが平城宮出土木簡に知夫利評(ちぶりのこおり)の石部(いそべ)真佐支という名が見えるので、隠岐国に磯部(石部)が置かれていたことがわかる。
磯部は『古事記』応神天皇段に海部(あまべ)とともに設置されたと記す「伊勢部」の事と見られ、海部と同じく漁猟を職とする部民であったが、海部が西国を主に広く分布するのに対し、磯部(伊勢部)は伊勢を本拠地として東国を中心に広く分布したとされる。
また伊勢の地名も「磯」に基づくものであるとされることから、磯部を介した伊勢との関係がうかがえ、特に当神社の鎮座する穏地郡の磯部氏が郡少領を務めるほどの有力者であったらしいことから、当神社の創祀には磯部氏を頂点とする海民の動きがあったものとも推定されている。



参考資料
「日本の神々 神社と聖地 第7巻 山陰」 (白水社 2007 谷川健一 坂田友宏 川上迪彦他)
「島根県の歴史」(山川出版 2000)  
「神社辞典」 (東京堂出版 1997)

ウキペディア 「神社一覧」   


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