長崎県の神社
壱岐国一宮  天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)
所在地
長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730

社格
式内社(名神大) 壱岐国一宮 村社

祭神
天忍穂耳尊 天手力男命 天鈿女命

歴史
天手長男神社は壱岐国の宗廟・一宮とされ崇敬を受けていたが、元寇により廃れてしまい、所在も不明となっていた。
現在の天手長男神社は、それまで「若宮」と呼ばれていた式外社の小祠を、江戸時代の平戸藩の国学者・橘三喜が名神大社・天手長男神社に比定したものである。
三喜は、「たながお(たなかを)」という社名から天手長男神社は田中触にあるものと推定した。
そして、田中の城山竹薮の中に分け入り、神鏡1面、弥勒如来の石像2座を堀り出し、石社を作って祀った。
松浦藩主の命により元禄元年(1688年)に社殿が作られた。

補足


対馬国一宮  海神神社(わたつみじんじゃ、かいじんじんじゃ、かいじんじゃ)
所在地
長崎県対馬市峰町木坂247

社格
式内社(名神大) 対馬国一宮 国幣中社 別表神社

祭神
主祭神=豊玉姫命
配祀=  彦火火出見命、宗像神、道主貴神、鵜茅草葺不合命
(江戸時代までは八幡神を祀っていた)

歴史
社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を上県郡峰町に納めたことに由来するという。
旗は後に現在地の木板山(伊豆山)に移され、木坂八幡宮と称された。
また、仁徳天皇の時代、木坂山に起こった奇雲烈風が日本に攻めてきた異国の軍艦を沈めたとの伝承もある。

中世以降は、八幡本宮とも、下県郡の下津八幡宮(現 厳原八幡宮)に対して上津八幡宮とも称された。

明治3年(1870年)、延喜式神名帳に見える和多都美神社に改称した。
翌明治4年5月、国幣中社に列格する際に、祭神を八幡神から豊玉姫命に改め、同年6月に現在の海神神社に改称した。

補足



佐賀県の神社
肥前国一宮  與止日女神社(よどひめじんじゃ)
所在地
佐賀県佐賀市大和町大字川上1

社格
式内社(小) 肥前国一宮 県社

祭神
主祭神=與止日女大神
(與止日女大神は豊玉姫のこととも、神功皇后の妹とも伝えられる)

歴史
『肥前国風土記』逸文(神名帳頭注)より
創建=欽明天皇25年11月1日。
延喜式神名帳では小社に列している。
応保年間(1161年ごろ)に肥前国一宮とされ、弘長元年(1260年)に最高位の正一位の神階を授けられた。
弘安の役(1281年)では與止日女大神の神霊が敵の船を摧いたと伝えられる。

補足
與止日女大神を主祭神とする。
佐賀県を中心とする北九州地方には、與止日女神(淀姫神)を祀る神社が多数あり、そのうち当社を含めた6社が嘉瀬川流域にある。


熊本県の神社
肥後国一宮  阿蘇神社
所在地
熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1

社格
式内社(名神大) 肥後国一宮 官幣大社 別表神社

祭神
健磐龍命((たけいわたつのみこと、神武天皇の孫) 阿蘇都比咩命(その妃神)
ほか10柱

歴史
孝霊天皇9年6月、健磐龍命の子で、初代阿蘇国造に任じられた国造速瓶玉命(阿蘇都比古命)が、両親を祀ったのに始まると伝えられる。
阿蘇神社大宮司を世襲しこの地方の一大勢力となっていた阿蘇氏は、速瓶玉命の子孫と称している。
延喜式神名帳には、一宮が「肥後國阿蘇郡 健磐龍命神社」と記載され名神大社に列し、二宮が「肥後國阿蘇郡 阿蘇比咩神社」と記載され小社に列している。

補足
健磐龍命の伝説
祖父である神武天皇の命をうけ、阿蘇山へ来た健磐龍命は、外輪山の上から目の前に広がる湖を眺め、その広大さに感心して、水をなくして田畑を造ろう、と考えた。
そこで、外輪山の一部を蹴破ろうとしたが、一度目に挑戦したところはなかなか蹴破れなかった。
それは、山が二重になっているからで、以後、その場所は「二重(ふたえ)の峠」と呼ばれるようになった。
別の場所で挑戦したら、今度は見事に蹴破ることに成功したが、そのはずみで健磐龍はしりもちをついてしまい、「立てぬ」と叫び、以後、その場所は「立野」と呼ばれるようになった。
また、蹴破ったところからは、湖水が一気に西の方に流れ出て、数匹の鹿が流されてしまったことから、以後「数鹿流(すがる)が滝」と呼ばれるようになった。
湖水が引くと、底から巨大なナマズが現れ、湖水をせき止めていたので、健磐龍は刀でナマズを切り、ようやく湖水は流れていった。



大分県の神社
豊前国一宮  宇佐神宮
所在地
大分県宇佐市南宇佐2859

社格
式内社(名神大) 豊前国一宮 官幣大社 勅祭社 別表神社

祭神
主祭神=八幡三神:応神天皇 比売大神 神功皇后

歴史
社伝等より
欽明天皇32年(571年)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があった(扶桑略記 東大寺要録、宮寺禄事抄)と言われている。

また、宇佐神宮は三つの巨石を比売大神の顕現として祀る御許山山頂の奥宮・大元(おおもと)(=御許:おもと)神社の麓に位置し、豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態であろうと言われている。

そこに、当初は香春岳山麓に住み、その後、現在の中津市大貞薦神社で神官もしくは巫女を務めていたと思われる、渡来系のスサノオの子、五十猛命(いそたける)が始祖と言われている辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込み、後に宇佐辛嶋郷に住んで、辛嶋郷周辺に稲積六(いなずみろく)神社(単に稲積神社とも表記。宇佐市中561)、乙咩(おとめ)神社(宇佐市下乙女宮本1343)、さらに酒井泉神社(宇佐市辛島泉1)、郡瀬(ごうぜ)神社(昔の表記は瀬社(せしゃ)。宇佐市樋田字瀬社187-1)と社殿を建築した。

補足
①参拝方式
2拝・4拍手・1拝
4拍手を定める神社は、全国で出雲大社と宇佐神宮のみである。
他の神社は原則として2拝・2拍手・1拝


②宇佐使
平安時代まで、天皇の代替わりなど重要時には宇佐使(うさづかい)という使節が朝廷から派遣されていた。
宇佐八幡宮神託事件にちなみ、宇佐使は和気清麻呂の子孫である和気氏が務めるのが通例であった(ただし菅原道真が左遷された際などには藤原氏から人選されている)。
なお宇佐使は建武期に復活したが、再び停止された。
明治以降に復活し、大正時代から皇室から侍従職あるいは掌典職などの使者(勅使)が10年おきに派遣される勅使祭となって現在も続いている。


豊後国一宮  西寒多神社(ささむたじんじゃ)
所在地
大分県大分市寒田1644

社格
式内社(大) 豊後国一宮 国幣中社 別表神社

祭神
主祭神=西寒多大神(この神は天照皇大御神のことであるとされる)
配祀=  他に月読大神・伊弉諾大神・伊弉册大神・大直日大神・神直日大神・八意思兼大神・軻遇突智大神・大歳大神・倉稲魂大神をする。

歴史
社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、西寒多山(現在の本宮山)に臨幸し、その証として山頂に白旗を立てた。
当地の人々はこれを崇敬して籬垣を結んで拝んでいた。
応神天皇9年(278年)4月、その地に武内宿禰が祠を建てたのが当社の始まりと伝える。
国史の初見は、『日本三代実録』貞観11年(869年)3月22日条の西寒多神に従五位下を授けるという記述である。
延喜式神名帳では豊後国唯一の大社に列し、豊後国一宮とされた。

補足


鹿児島県の神社
大隅国一宮  鹿児島神宮  (別名:大隅正八幡宮)
所在地
鹿児島県霧島市隼人町内2496

社格
式内社(大) 大隅国一宮 官幣大社 別表神社

祭神
天津日高彦穂々出見尊 豊玉比売命 帯中比子尊 息長帯比売命 品陀和気尊
中比売尊 姫大神 太伯

歴史
社伝より
神武天皇の時に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿であった高千穂宮を神社としたもの」とされるが、実際の所は「あまりにも古くてはっきり分からない」と言うのが正しいようである。
当社の北西13kmの地点に、穗穗出見尊の御陵とされる高屋山陵がある。

醍醐天皇の時に編纂された『延喜式』に「鹿児嶋神社」とあるもので、大社に列している。
その高い社格から桑幡氏、税所氏などの有力国人をその神職より輩出した。
平安時代に、宇佐八幡が九州各地に別宮を作ったのに伴い、当社に八幡神が合祀され、それ以降、正八幡宮・大隅八幡宮などとも称される。

戦国時代から江戸時代には、地元の大名である島津氏の尊崇を受けた。

補足



参考資料
「神社辞典」 (東京堂出版 1997)

ウキペディア 「神社一覧」


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