先史時代 |
新石器時代(BC5000年- BC1000年) |
BC1500年頃 |
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農耕 |
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中国より農耕伝わる。 |
無文土器時代(BC1000年頃 - BC100年) |
BC700年頃 |
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青銅器 |
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中国より青銅器伝わる。 |
BC300年頃 |
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鉄器 |
中国より鉄器伝わる。 |
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古朝鮮時代 |
黒い山葡萄原人 |
平壌の大同江流域で誕生したとされる原人。
この原人が朝鮮人の祖先であり、朝鮮人は人類発祥の時から朝鮮半島に代々暮らしてきたとされる。
(朝鮮中央放送の科学番組による主張だが根拠は示されていない。)
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檀君朝鮮(檀君神話) |
檀君は神話上の人物。
『三国遺事』に、『魏書』からの引用(ただし、現存する『魏書』にはそのような記述は存在しない)として、中国の堯帝時代に白頭山に降臨した天神の子・桓雄と熊女の間に生まれた檀君が平壌城で建国したと記されている。
大韓民国(韓国)では檀君即位の年をB.C.2333年とし、それから年を数える「檀君紀元」(檀紀)という紀元も存在する。
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箕子朝鮮(? - 紀元前194年) |
殷の箕子(きし)が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。
いわゆる古朝鮮の一つで、韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。
首都は王倹城(現在の平壌)。
『三国志』魏志書、『魏略』逸文などにやや具体的な記述が見えるものの、未だに考古学的な裏付けが無く、実在性は乏しいと考えられている。
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衛氏朝鮮( 紀元前194年? - 紀元前108年) |
中国資料の記述によれば、燕の亡命者である衛満が今の朝鮮半島北部に立てたとされる。
(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは『三国志』以降)
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朝鮮 |
日中 |
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BC221 |
中国統一 |
秦の始皇帝が中国を統一。 |
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BC206 |
秦、滅亡 |
陳勝・呉広の乱が広まり、秦滅亡。 |
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BC202 |
前漢成立 |
劉邦が漢王朝を樹立。 |
BC195年 |
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燕王盧綰の部将であった衛満が朝鮮に亡命して来た。 |
BC194年 |
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衛氏朝鮮建国 |
燕の亡命者である衛満が王権を簒奪して今の朝鮮半島北部に衛氏朝鮮建国。 |
BC134年 |
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城邑を築城 |
前漢の武帝は北方の穢州を取らんとして城邑を築いた。 |
BC128年 |
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蒼海郡を設置 |
穢君南閭ら(穢族の首長の「南閭」たち)が二十八万もの穢人を率いて投降。その地に「蒼海郡を設置。 |
BC108年 |
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衛氏朝鮮滅亡 |
武帝の逆鱗に触れ、紀元前109年、紀元前108年に遠征が行われ、衛氏朝鮮は滅ぼされた。
故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が置かれ、漢の直轄地になった。 |
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原三国時代(BC108 -AD346年) |
紀元前108年に楽浪郡が置かれ、百済・新羅が国家としての体裁を整える4世紀中頃までの朝鮮半島の事を差す。
楽浪郡から中国の文化を受容し、三韓が国家としての体裁を整えていく過程の時代である。
濊(わい)
前二世紀の中国東北部にいた「濊」は、後三世紀の夫餘・高句麗・沃沮・穢の四種族の前身である。
三世紀の韓国江原道にいた濊は前漢代の中国東北部にいた濊の後裔と思われる。
夫餘(ふよ)
満洲に存在した民族の一つ。
中国三国時代には、万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は挹婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)に接し、方約900Km の範囲に及んでいたという。
百済王家も扶余系であったと見られている。
また言語が日本語に近かったとも言われている。
沃沮
紀元前2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島北部の日本海に沿った地方に住んでいたと思われる民族の名称。
言語は高句麗とほとんど同じと記される。「
楽浪四郡が置かれた際に、沃沮(夫租の濊族)は楽浪郡に帰属することとなった。
後、3世紀の頃には高句麗に臣従していた。
高句麗(紀元前37年頃 - 668年)
扶余系(扶余系貊族)の民族による国家。
この高句麗を形成した扶余系民族とは、中朝国境をはさむ山岳地帯で農耕を主とし、その他に牧畜・狩猟を生業としていた民族とみられる。
楽浪郡
紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり植民地である。
また、真番郡、臨屯郡、玄菟郡(げんとぐん)の3郡が置かれた。
郡治(郡役所所在地)は現在の平壌にあった。
東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や日本の中国文明受容に大きな役割を果たした。
馬韓
西部に位置し、五十数カ国に分かれていた。言語は辰韓や弁韓とは異なっていた。
のちの百済に相当する。
辰韓
12カ国に分かれていた。言語は馬韓と異なり、辰韓と類同していた。のちの伽耶諸国(かやしょこく)に相当する。
弁韓
馬韓の東方に位置し、12カ国に分かれていた。言語は馬韓と異なり、弁韓と類同していた。のちの新羅に相当する。
帯方郡
204~313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。
楽浪郡の南半を裂いた数県と、西の濊族、南の韓族諸国、東南海上の倭国がこれに属す。
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ウキペディア 「帯方郡」 より引用 |
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朝鮮 |
日・中 |
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原三国時代 |
BC108年 |
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楽浪郡設置 |
楽浪郡および真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が置かれ、漢の直轄地になった。 |
BC107年 |
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玄菟郡設置 |
玄菟郡を設置。この時「穢王之印」を所持した穢人の政権は北へ逃亡し「鹿山」の地に依って「夫餘国」を建てた。 |
BC82年 |
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真番郡・臨屯郡廃止 |
真番郡・臨屯郡が廃止。臨屯郡の跡地は穢人の首長たちを多くの「県侯」に任じて治めさせたと思われる。 |
BC75年 |
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玄菟郡移転 |
玄菟郡が西へ縮小移転(第二玄菟郡という)され、日本海沿岸部(咸鏡道)は放棄され、「沃沮」として独立。 |
BC59年 |
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玄菟郡移転 |
玄菟郡はさらに西方へ縮小移転を開始し、中国と朝鮮の国境山岳部も放棄され、「高句麗」として独立。 |
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25 |
後漢成立 |
光武帝が後漢を樹立。 |
32年 |
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高句麗王 |
後漢の光武帝は、高句驪侯を高句麗王に昇格させた。
穢族は、夫餘国と高句麗国の二つの王国をもつことになった。 |
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57 |
金印受領 |
倭の奴国王、後漢の光武帝より金印受領 |
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107 |
倭面土国王 |
倭面土国王「帥升」等、後漢「安帝」に遣使し、生口(せいこう:奴隷)を献ずる。【後漢書東夷伝より】 |
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158 |
皆既日蝕 |
有史以来初の皆既日食。 |
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180頃 |
倭国大乱 |
倭国大乱の時期には諸説在り。
①【後漢書東夷伝】より:147年-189年
②【梁書】より:178年-183年 |
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184 |
黄巾党の乱 |
中国で大規模な民衆の反乱。 |
204年 |
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帯方郡設置 |
古代中国によって朝鮮半島の中西部に軍事・政治・経済の地方拠点である帯方郡が置かれた。 |
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208 |
赤壁の戦い |
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220 |
後漢滅亡 |
この後、魏・呉・蜀の三国時代となる。 |
238年 |
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楽浪・帯方郡収復 |
三国時代には魏が楽浪・帯方郡を収復。 |
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239 |
卑弥呼朝献 |
魏から「親魏倭王」の金印、銅鏡(三角縁神獣鏡)100枚を送られる。
なお、卑弥呼は帯方郡を通じて中国王朝と通交している。 |
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249 |
卑弥呼死去 |
248年9月5日、有史以来2回目の皆既日食。
この直後に何らかな形(殺害?)で卑弥呼は死亡したと考えられる。 |
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265 |
「西晋」、建国 |
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266 |
「壱与」遣使 |
卑弥呼の後継女王、「壱与」が西晋に遣使する。 |
313年 |
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楽浪郡滅亡 |
高句麗に滅ぼされ、後に高句麗は楽浪の地に遷都した。 |
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316 |
「西晋」滅亡 |
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316 |
「東晋」建国 |
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三国時代(346年-673年) |
高句麗
扶余系民族による国家であり、最盛期は中国大陸東北部(満州南部)から朝鮮半島の大部分を領土とした。
百済(346年-660年)
百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。
『梁書によれば、百済の言語はほぼ高句麗と同じと記し、『魏書』もそれを踏襲した。
『周書』は、百済王の姓は夫余氏であり、自ら「於羅瑕」と称していたこと、一方、民衆は「鞬吉支」と呼んでおり、どちらも王の意味であることを特記している。
また夫余氏は中国系でありその後の歴史の過程で、日本(倭)人との婚姻も繰り返された。
民族においては現在の半島在住者とは異なっており、「臣と高句麗は源は夫余より出る」との文より百済と高句麗は同属であると考えられていた。
伽耶諸国
朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群。
伽耶の言語については諸説有り特定不能。
考古学的側面から、前方後円墳の発見を踏まえて一部地域への倭人の集住を認める論考が出されている。
新羅(356年-676年-935年)
朝鮮半島南東部にあった国家。
建国初期に倭人勢力との関わりを伝えることなど、高句麗・百済の始祖説話体系とは異なり、新羅の特徴的事象となっている。
日本側伝承では、『新撰姓氏録』が新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしている。
アメノヒボコ伝承や出雲神話などに早い時期から新羅と倭との関わりが暗示されている。
しかし記紀では、稲飯命は、『古事記』においては母の国の海原へ行ったとされている。
また『日本書紀』においては神武東征の際に嵐を鎮めるため海に入水したとされるなど、新羅との関わりには触れられていない。
天武天皇の即位から780年までは、日本との関係は比較的良好であり、双方の間で遣新羅使、遣日本使が30回以上送られている。
しかし、780年に渤海と新羅の間が緊張し、渤海が日本へ遣日本使を派遣すると新羅と日本の間の国交は停滞した。
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朝鮮 |
日・中 |
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三国時代 |
346年 |
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百済建国 |
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356年 |
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新羅建国 |
朝鮮半島で新羅が建国。 |
371年 |
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百済の近肖古王が楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させた。 |
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372年 |
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七支刀 |
百済王が倭国に七支刀を送った。 |
391年 |
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倭国朝鮮出兵 |
倭国が朝鮮に出兵する 【好太王の碑文より】 |
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420 |
「東晋」、滅亡 |
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420 |
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宋建国。中国、南北朝時代へ。 |
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421 |
倭王「讃」 |
倭王「讃」が、宋に使者を送る。
倭の五王の時代
1.讃(さん)王 2.珍(ちん)王
3.済(せい)王 4.興(こう)王 5.武(ぶ )王 |
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438 |
倭王「珍」 |
『讃』死す。
弟の『珍』が王位に立ち、宋に朝貢する。安東将軍・倭国王の称号を賜る。 【宋書より】 |
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443 |
倭王「済」 |
『珍』死す。 『済』が王位に立ち、宋に朝貢する。 【宋書より】
『済』は第19代允恭天皇説が有力。 |
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462 |
倭王「興」 |
『済』死す。子の『興』が王位に立ち、宋に朝貢する。 【宋書より】
『興』は第20代安康天皇説が有力。 |
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471 |
稲荷山鉄剣 |
銘文の内容から、この頃雄略天皇の時代には、関東から熊本まで大和朝廷の権力が及んでいたと考えられる。 |
475年 |
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百済漢城は落城 |
高句麗が百済を攻め首都・漢城は落城し、、蓋鹵王が戦死した。 |
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百済遷都 |
その後、高句麗の広開土王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。 |
477年 |
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(雄略天皇が百済王に熊津の地を賜って国を再興させたとある) |
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478 |
倭王「武」 |
『興』死す。弟の『武』が王位に立ち、宋に朝貢する。 【宋書】(以後朝貢途絶える)
『武』は、第21代雄略天皇説が有力。 |
532年 |
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伽耶国滅亡 |
朝鮮半島の伽耶国が滅亡。 |
538年 |
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百済遷都 |
百済の聖王は都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)へ南遷した |
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538 |
仏教伝来 |
百済から仏教が伝わる(552年の説もある)。 |
554年 |
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聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送ったが、554年には新羅との戦いで戦死する。 |
562年 |
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大伽耶滅亡 |
新羅が大伽耶(任那)を滅ぼす。 |
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こののち、「高句麗-百済-倭国」と「唐-新羅」のブロックが対立する構図へと傾斜していく。 |
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581 |
隋建国 |
楊堅が隋を建国し、都を長安に定めた。 |
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607 |
遣隋使 |
聖徳太子が小野妹子を隋に派遣。 |
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608 |
斐世清来日 |
小野妹子、隋使「斐世清」を伴い帰国。
斐世清、大王「足利思彦」に謁見。 |
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618 |
隋滅亡、唐建国 |
李渕が唐を建国し、高祖となった。 |
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618 |
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李渕が唐を建国し、高祖となった。 |
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630 |
第一回遣唐使 |
犬上御太鋤らを唐に派遣。 |
631年 |
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百済王子「豊璋」 |
百済王子「豊璋」(扶余豊璋)、人質として来日。 |
650年 |
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百済王子「豊璋」が白雉献上の儀式に出席。 |
660年 |
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百済滅亡 |
新羅が百済を滅ぼした。
百済王と王族・貴族を含む数千の百済人が倭国に亡命し一部が朝廷に仕えた。 |
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662年 |
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豊璋帰国 |
倭国は豊璋に狭井檳榔、秦田来津の二将率いる兵5000と軍船170艘を添えて百済へと遣わした。 |
663年 |
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白村江の戦い |
日本、百済の連合軍が、唐、新羅の連合軍に大敗する。
以後日本は朝鮮から撤退。 |
664年 |
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百済王善光 |
扶余豊璋の兄、百済王善光は居住地を難波とした。 |
689年 |
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百済王善光 |
百済王善光が天武天皇崩御に際しては旧百済王族を代表して殯宮での誄(しのびごと)を言上す。 |
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統一新羅(676年-935年) |
668年 |
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高句麗滅亡 |
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新羅が高句麗を滅亡させた。 |
670年 |
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新羅・唐対立 |
旧百済領を占領していた唐とその支配権をめぐって対立。 |
676年 |
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新羅半島統一 |
唐軍を半島から追い出し、初めての統一政権樹立。 |
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後三国時代(892年 - 936年) |
892年 |
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後百済建国 |
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農民出身の甄萱が南西部に後百済を建国。 |
901年 |
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後高句麗建国 |
新羅王族の弓裔が北部に後高句麗を建国。 |
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907 |
唐滅亡 |
唐が滅亡し、この後約50年間、中国では五代十国時代が続く。 |
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高麗(918年-1392年) |
918年 |
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高麗建国 |
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後高句麗の豪族の王建が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗を建国する。 |
935年 |
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新羅滅亡 |
最後の王・敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順したことにより新羅滅亡。 |
936年 |
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朝鮮半島統一 |
高麗が後百済を滅ぼし朝鮮半島統一。 |
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960 |
「宋」建国 |
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1274 |
文永の役 |
第一回蒙古襲来。2万人。 |
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1281 |
弘安の役 |
第二回蒙古襲来。14万人。 |
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1293 |
鎮西(九州)探題 |
博多に鎮西(九州)探題設置。 |
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1341 |
天龍寺船 |
元との貿易。 |
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1368 |
「明」建国 |
李鴻章が「明」を建国。 |
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朝鮮(1368年-1910年) |
1392年 |
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朝鮮建国 |
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高麗滅び、李成桂が朝鮮建国(李氏朝鮮)。 |
1399年 |
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日朝貿易 |
対馬の宗氏が朝鮮と通交。 |
1419年 |
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応永の外寇 |
朝鮮が和冦の本拠地と見なした対馬を襲った。宗貞盛が撃退。 |
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1343 |
日明貿易再開 |
6代義教は、明銭の必要性などから日明貿易再開。 |
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1547 |
日明貿易終了 |
細川氏、大内氏の没落に伴い日明貿易終了。 |
1592年 |
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文禄の役 |
秀吉が朝鮮出兵を命ずる。15万人の軍。 |
1597年 |
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慶長の役 |
秀吉が再び朝鮮に出兵する。 |
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1639 |
鎖国の強化 |
ポルトガル船来航禁止。以後、オランダ、中国(清)のみと交易を行う。 |
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1641 |
鎖国の完成 |
オランダ商館を平戸から長崎の出島に移す。 |
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1644 |
「清」建国 |
明が滅亡し、清建国。 |
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1840 |
アヘン戦争 |
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1871 |
日清修好条規 |
初の対等条約である日清修好条規が結ばれる。 |
1873年 |
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征韓論
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征韓論をめぐって西郷隆盛と大久保利通が対立。西郷下野。
(明治6年の政変) |
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1874 |
台湾出兵 |
征台の役。西郷従道(隆盛の弟)ら、沖縄の漂流民が台湾で殺されたことを口実に台湾に出兵する |
1876年 |
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日朝修好条規 |
朝鮮と日朝修好条規(江華条約)を締結。
外国に対して締結した初めての不平等条約。 |
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1879 |
琉球処分 |
琉球藩を沖縄県とする。 |
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1894 |
日清戦争 |
日本海軍が豊島沖で清国艦隊を攻撃し、開戦。
黄海海戦などでで日本が勝利し、清が和平を求めた。 |
|
1895 |
下関条約 |
伊藤博文首相、陸奥宗光外相と、李鴻章が交渉。
朝鮮の独立承認
遼東半島、台湾・ぼう湖諸島の割譲。
2億両(3億1000万円)の賠償金。 |
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三国干渉 |
ロシア、フランス、ドイツの干渉により遼東半島返還。 |
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1900 |
義和団の乱 |
清で排外運動が起こり、日本を中心に各国が出兵し鎮圧。 |
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1904 |
日露戦争 |
2月 日本海軍が旅順のロシア艦隊を攻撃、日露戦争が勃発。 |
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1905 |
旅順陥落 |
1月 旅順陥落。 |
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|
奉天の会戦 |
3月 奉天の会戦でロシア軍敗走。 |
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日本海海戦 |
5月 バルチック艦隊ほぼ全滅。 |
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ポーツマス条約 |
9月 合衆国セオドア-・ルーズベルト大統領の仲介でポーツマス条約締結
日本側:小村寿太郎 ロシア側:ウィッテ
日本の韓国に対する指導権
旅順・大連の租借権
北緯50度以南の樺太割譲 |
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日本統治時代(1910年ー1945年) |
1910年 |
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韓国併合 |
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韓国を併合し、ソウルに朝鮮総督府を置いた。 |
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1911 |
辛亥革命 |
清朝が倒れ中華民国が成立。初代総統に孫文が就任。 |
1914年 |
1914 |
第一次大戦勃発 |
オーストリア皇太夫妻がセルビアの青年によって暗殺された。
それを契機に、ヨーロッパで第一次世界大戦勃発。
3国同盟:独、伊、オーストリア
3国協商:英、仏、蘭
日本では世界大戦の影響で好景気になり、「成金」を生む。
債務国→債権国 農業国→工業国 |
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大 3 |
一次大戦参加 |
日本は連合国側で参加。ドイツの東洋の根拠地、青島などを攻める。 |
1915年 |
大 4 |
対華21ヶ条要求 |
中華民国大総統の袁世凱に対し、21か条の要求を出し、満州へ手をのばす。
三東省での独の利権を日本が受け継ぐ
満州、モンゴルでの日本の利権を広げる など |
1920年 |
1920 |
3.1運動 |
朝鮮で3.1運動(独立運動)。日本は軍事力で鎮圧。
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1920 |
5.4運動 |
中国で5.4運動(排日運動)。 |
1931年 |
昭 6 |
満州事変
(柳条湖事件) |
9月 奉天郊外の柳条湖で日本軍(関東軍)が満州鉄道の線路を爆破。
その罪を張作霖の息子、張学良にきせて軍事行動を起こした。
関東軍は4ヶ月かけて満州全土を征服。
この事件が、太平洋戦争終結まで続く「15年戦争」の発端となった。 |
1932年 |
昭 7 |
第一次上海事変 |
1月 日本人僧侶襲撃事件を発端に、日本軍と中国軍が衝突。 |
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昭 7 |
満州国建国 |
3月 清朝最後の皇帝、「愛新覚羅ふぎ」を元首に据えて、満州国を建国。 |
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昭 7 |
五・一五事件 |
5月15日 青年将校らが総理大臣の犬養毅を暗殺。
この結果、政党政治が終わりを告げた。 |
1937年 |
昭12 |
日中戦争勃発 |
9月 廬溝橋事件をきっかけに、日中戦争が勃発。
12月 南京陥落。 |
1939年 |
昭14 |
ノモンハン事件 |
5月 満州南西部で、日本軍とロシア軍が衝突。日本軍は壊滅的打撃を受けた。 |
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昭14 |
第二次世界大戦勃発 |
9月 ドイツがポーランドに侵入。英仏両国がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発。 |
1941年 |
昭16 |
日ソ中立条約 |
4月 北方の安全をはかるため、日ソ中立条約締結。 |
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昭16 |
ABCD包囲網 |
7月 アメリカ、イギリス、中国、オランダが在外日本資産の凍結。
石油などの輸出禁止。 |
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昭16 |
太平洋戦争開戦 |
12月8日 真珠湾攻撃により太平洋戦争開戦。 |
1945年 |
昭20 |
終戦 8月15日 日本、無条件降伏し終戦。 |
1945年 |
1945 |
降伏文書調印式 |
|
9月2日 東京湾の米戦艦ミズーリ号上で降伏文書調印式。
以後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が日本を間接統治する。
軍国主義の除去、民主主義の育成を柱とする。 |
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南北朝鮮の成立 |
1948年 |
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南北朝鮮の成立 |
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南部に大韓民国、北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立。 |
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1949 |
中華人民共和国
成立 |
共産党(毛沢東)と、国民党(蒋介石)が内戦。
共産党が勝利し、中華人民共和国を樹立。
蒋介石は台湾に逃れて中華民国政府を維持した。 |
1950年 |
昭25 |
朝鮮戦争 |
6月 北朝鮮が38度線を越えて南に侵攻。朝鮮戦争勃発。
1951年休戦会議、1953年板門店で休戦協定。 |
1951年 |
昭26 |
サンフランシスコ
平和条約 |
日本代表の吉田茂首相は、アメリカ合衆国など48カ国と平和条約を結ぶ。
1952年、日本は独立を回復した。 |
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1955 |
AA会議 |
アジア・アフリカ諸国会議。平和10原則を宣言。
米ソの2代勢力に対して、第三勢力の立場をとる。(ネルー首相と周恩来中心) |
1965年 |
昭40 |
日韓基本条約 |
佐藤栄作内閣と朴正煕政権が日韓基本条約を締結。 |
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昭47 |
日中共同声明 |
日中共同声明(首相 田中角栄)で、台湾の中華民国にかえて中華人民共和国政府を承認し、国交が回復した。 |
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日中平和友好条約 |
中国との戦争処理が終わった。 |
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参考文献、資料 |
「詳説世界史研究」 (山川出版 第11刷 2003年)
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