日本武尊
概説
呼称
 古事記での呼称
    倭建命
 日本書紀での呼称
    日本武尊あるいは小碓命(おうすのみこと)

幼名を小碓命(おうすのみこと)といい,兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われている。

崩御
  崩御=30歳で病篤くなり崩御し、能褒野(のぼの、三重県亀山市)の白鳥陵に葬られた。
  陵墓=白鳥陵
       『日本書紀』に即して大阪府羽曳野市(軽里大塚古墳)と奈良県御所市に比定されている。


系譜
父=景行天皇 (第二皇子。古事記では第三皇子)
母=播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)

妃1=両道入姫皇女(ふたじのいりひめのひめみこ。垂仁天皇の皇女)
  稲依別王(いなよりわけのみこ) - 犬上君、建部君の祖。
  足仲彦天皇(仲哀天皇)
  布忍入姫命(ぬのしいりひめのひめみこ)
  稚武王(わかたけのみこ)

妃2=吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ。吉備武彦の娘)
  武卵王(たけかいこのみこ、武殻王・建貝児王) - 讃岐綾君・宮道君の祖。
  十城別王(とおきわけのみこ) - 伊予別君の祖。
 

妃3=妃:弟橘媛(おとたちばなひめ。穂積氏忍山宿禰の娘)
  稚武彦王(わかたけひこのみこ)
 
妃4=山代之玖玖麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)
  足鏡別王 (あしかがみわけのみこ、蘆髪蒲見別王・葦?竈見別王) - 鎌倉別の祖。

妃5=布多遅比売(ふたじひめ。近淡海国造の祖・意富多牟和気の娘)
  (稲依別王)→ 両道入姫皇女の所生か。


事績
景行27年
8月

熊襲が再叛
父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の行き違いから、小碓命は素手で兄をつまみ殺してしまう。そのことで小碓命は父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。

10月
日本武尊(16歳)を遣わして、熊襲を征討させる。
首長の川上梟帥を謀殺。、

熊襲討伐後は吉備や難波の邪神を退治して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。
翌年に復命。

その後、日本武尊(倭建命)は出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。
しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換した上で、太刀あわせを申し込み殺してしまう

景行40年
10月
景行天皇が日本武尊に蝦夷征討を命じる。
尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かった。

陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定する。

日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚。

その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。
そのまま伊勢国に入る。

景行43年
能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御し、白鳥陵に葬られた。
30歳であったという。
なお、『古事記』によれば、死の直前に大和を懐かしんで「思国歌(くにしのびうた)」を詠んだとされる。
    「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」

日本武尊の死後
日本武尊の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。
彼らは陵墓を築いてその周りで這い回り、歌を詠った。

すると日本武尊は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちは尚3首の歌を詠いながら、その後を追った。
     これらの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌)となった

白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがてまたその地より天に翔り、行ってしまう。
こうして白鳥は天に昇っていってしまう。
その後天皇は、日本武尊の御名代として武部(健部・建部)をさだめた。



日本武尊に関する諸説
日本武尊の物語の特徴
ヤマトタケルの物語は、主人公の名前が各場面によって変わるのが特徴である。
また、説話ごとに相手役の女性も異なっている。
加えて系図も非常に長大で、その人物や説話の形成には様々な氏族や時代の要請が関わっていた可能性がある。


出雲の日本武尊
日本書紀では崇神天皇の条に出雲振根と弟の飯入根の物語として、全く同型の話が見えるが、日本武尊(倭建命)の話としては出雲の話は全く語られていない。
従って、原型は崇神紀の出雲振根説話と考えられる。


白鳥伝説
谷川健一 「白鳥伝説」より
物部氏と鳥取部、鳥養部と関連があることは否定できず、鳥取氏の居住地(鳥取郷)は銅や鉄などの金属精錬に関係のある土地で、鳥取部、鳥養部、品遅部の部民はホムツワケ皇子の説話にみられるような白鳥伝説を保持していたとされている。

日本武尊と白鳥伝説
日本武尊は白鳥となって、大和を指して飛んだとされる。
これの意味するとところは定かではない。


草薙剣(くさなぎのつるぎ)
駿河で野火攻めに遭った時、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草をなぎ払って難を逃れたことより、この剣が“草薙剣”(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになったものとしている。
なお、草薙剣はこの後、ミヤズヒメの元、尾張の熱田神宮にて祀られたが、天智7年(668年)僧道行によって盗まれ、その後は宮中に留め置かれた。
ところが、朱鳥元年(686年)に天武天皇の病気が草薙剣の祟りとわかり、剣は再度熱田神宮に祭られることになった。



参考資料
「新訂増補国史大系  日本書紀 前篇」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「新訂増補国史大系  日本書紀 後編」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「日本書紀 上・中・下」 (教育社 1992)山田宗睦訳 
「日本書紀 上・下」 (講談社)
「口語訳 古事記」 (文藝春秋社 2002)
ウキペディア 「ヤマトタケル」


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日本武尊
  12代景行天皇の皇子で、14代仲哀天皇の父とされる人物。