第38代 天武天皇 (主として日本書紀による記載)
概説
諱、諡号等
幼名      大海人皇子(おおあまのみこ、おほしあまのみこ、おおさまのみこ)
和風諡号   天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)
漢風諡号   天武天皇・・・・天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした事から名付けられたとされる。

生没年
631年?(舒明3年)-686年(朱鳥元年)

即位
即位=673年
皇居=飛鳥浄御原宮

崩御
崩御=686年
陵墓=檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口、野口王墓古墳)


系譜
父=34代舒明天皇
母=35代皇極天皇

皇后=鸕野讃良皇女(後に持統天皇)・・・・38代天智天皇皇女
  皇子①=草壁皇子(662-689)・・・・文武天皇、元正天皇、吉備内親王の父

妃1=大田皇女・・・・天智天皇の皇女、鸕野讃良皇女の同母姉(母=蘇我遠智娘
  皇女①=大来皇女
  皇子①=大津皇子


妃2=大江皇女・・・・天智天皇の皇女
  皇子①=長皇子・・・・ 文室真人・文室朝臣等の祖
  皇子②=弓削皇子

妃3=新田部皇女・・・・天智天皇の皇女
  皇子①=舎人親王(崇道尽敬皇帝)・・・・48代淳仁天皇の父、清原真人等祖
 
夫人1=氷上娘・・・・藤原鎌足の女
  皇女①=但馬皇女

夫人2=五百重娘 - 藤原鎌足の女
  皇子①=新田部親王・・・・氷上真人、三原朝臣の祖

夫人3=大蕤娘 - 蘇我赤兄の女
  皇子①=穂積皇子
  皇女①=紀皇女
  皇女②=田形皇女・・・・六人部王の室

宮人1=額田王・・・・鏡王の女
  皇女①=十市皇女・・・・大友皇子(弘文天皇)の妃

宮人2=尼子娘 - 胸形徳善女
  皇子①=高市皇子・・・・長屋王・鈴鹿王の父、高階真人・高階朝臣等の祖

宮人3=カヂ媛娘(カヂは木偏に穀)・・・・宍人大麻呂女
  皇子①=忍壁皇子・・・・龍田真人の祖
  皇子②=磯城皇子・・・・三園真人・笠原真人・清春真人の祖
  皇女①泊瀬部皇女・・・・川島皇子の妃
  皇女②託基皇女・・・・施基親王の妃


  34代舒明天皇--------35皇極天皇(=37斉明天皇)-----------高向王
               ↓      ↓                                ↓    
               ↓    38天智天皇--------蘇我遠智娘     漢皇子
               ↓                 ↓      
  大田皇女---40天武天皇-----41持統天皇    
          ↓           ↓ 
          ↓         草壁皇子-------43元明天皇
          ↓                ↓      ↓
     47淳仁天皇         44元正天皇  42文武天皇----藤原宮子
                                            ↓
                                        45聖武天皇----藤原光明子
                                                   ↓  
                                             46孝謙天皇(=48称徳天皇)


事績
631年(舒明3年)?
誕生

668年(天智7年)
天智天皇の皇太弟に立てられたとされる(否定する説もある)。

671年(天智10年)
重病の天智天皇に後事を託されるも固辞し、出家して吉野に移る。

672年(弘文元年)
壬申の乱で天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を破る。

673年(弘文2年)
飛鳥浄御原宮にて即位する。

675年(天武4年)
部曲を廃止する。
占星台を設置する。

676年(天武5年)
新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた唐との国交を断絶した。
陰陽寮を設置する。

678年(天武7年)
官人の勤務評定(考)や官位の昇進(選)に関して考選法を定めた。

679年(天武8年)
吉野に行幸する。
吉野の盟約・・・皇后、草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる。

680年(天武9年)
皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため薬師寺の建立を命じる。

681年(天武10年)
飛鳥浄御原宮律令の制定を命じる。草壁皇子を皇太子に立てる。

682年(天武11年)
匍匐礼を廃し、立礼にすることを命じる。

683年(天武12年)
富本銭の発行。

天武13年(684年)
八色の姓を制定。

685年(天武14年)
冠位四十八階を制定する。

686年(朱鳥元年)
 9月9日 崩御。


天武天皇業績
天皇号の創始
天皇の称号は天武天皇が始めたとする説が広く支持されており、非常に有力となっている。
これによれば、天武天皇が事実上の初代天皇だったこととなる(ただし、天皇号をより早く推古期に求める説や、遅く大宝以降とする説もある)。
また、宮廷歌人柿本人麻呂の歌にも「大君は神にしませば」で始まる歌があるように天皇自身の存在もそれまでとは違う神格的な存在となっていった。
天皇号の始まりは推古天皇説などもある。

皇族だけの皇親政治
これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立し、上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達された。
また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を1人も置かなかった
地方の支配体制を明確にするために『日本書紀』天武13年(684年)10月の条に「伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ」とあり、地方の行政組織づくりが進んだ。

『古事記』『日本書紀』の編纂勅命
古事記」編さんの際に語り部を行った稗田阿礼は天武天皇からこの帝紀を暗誦するよう命じられたといわれる。
日本書紀編纂の中心人物は、天武天皇の息子の舎人親王であった。

681年(天武10年) 3月 
国史編纂の詔勅(川嶋皇子以下12名に対する詔勅)
「天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子に詔して、帝紀および上古の諸事を記し校定させられた。大嶋・子首が自ら筆をとって記した」

宮都の選定と設計
飛鳥浄御原宮を建造したほか難波にも宮殿を建造した。
この難波の宮殿は唐などの複都制に倣った陪都(副都)であるとされている。
また、藤原京の建造を開始したのも天武天皇のときであるとする。

八色の姓の制定
豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革した。
   さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行った。
   これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立した。
   上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられた。
   天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達された。
   また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を1人も置かなかった。

飛鳥浄御原令の制定
天皇即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ(天武10年(681年)2月)、律令国家の確立を目指す。
天武元年(673年)5月に官僚機構の整備として畿内出身者で宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにした。
しかし、同時にこの大舎人の門戸は官人のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもあった。

伊勢の遷宮の制定・開始
斎宮が制度化されたのも天武朝の時代であると言われている。

践祚大嘗祭の制定
またこの頃から新嘗祭と大嘗祭の区別などがされ、現在にまで継承されている。

三種の神器の制定

仏教政策
仏教に対しても大官大寺等の造営が進められるとともに僧尼の統制が強化された。
皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈って薬師寺を建立させている。
ただしこの薬師寺の建立地は飛鳥であり、現在の地ではない(現在、この薬師寺の址として奈良県橿原市に本薬師寺址という史跡が存在する)。

陰陽寮・占星台(天文台)の設置
天皇自身、占星を得意としたのに加え、当時陰陽道などが律令国家である唐や新羅で盛んに行われたのが影響もしてか占星台や陰陽寮も設置させている。

肉食禁止令(675年 天武4年)
4月1日(5月3日)から9月30日(10月27日)までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリ)の肉食を禁止する。
当時は、ウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリを食べていたことになる。



天武天皇に関する諸説
天武天皇の生没年
『日本書紀』には、神武天皇から持統天皇までの40代(弘文天皇を入れれば41代)の天皇が登場しているが、年齢が不明なのは天武天皇だけとなっている。
系図上では父が舒明天皇で天智天皇の弟とされているが、「天武天皇は天智天皇の異母兄、若しくは異父兄だったのではないか」といった説も一部に存在する。
鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』、『皇年代略記』でそれぞれ生年が推古天皇30年(622年)・31年(623年)と考えられ、『日本書紀』での天智天皇の生年・推古天皇34年(626年)を上回る事等がその根拠とされている。
   天武天皇  生年 622年叉は623年
   天智天皇  生年 626年

特に、母である皇極天皇が舒明天皇の前に結婚していた高向王との間に生まれた漢王と同一人物ではないかとする考え(天武異父兄説)が有名であるが、同一史料には矛盾は見られない。
いずれにせよ、正確な生年は未詳である。

これらの説については、後世の史料の信頼性を疑問視する反論もある。
『一代要記』などの65歳は56歳(同55歳)の写し間違いであり、逆算して天武は631年生である」との説が有力である。

天武天皇 天智天皇
一代要記 推古27年(619年) 推古30年(622年)
仁寿鏡 不明 推古22年(614年)
興福寺略年代記 舒明 3年(631年) 舒明12年(640年)
神皇正統記・如是院年代記 推古22年(614年) 推古22年(614年)
神皇正統録・本朝皇胤紹運録 推古22年(614年) 推古30年(622年)
皇年代略記 推古22年(614年) 推古31年(623年)


天武の血脈
玄孫の称徳天皇の崩御により、皇統は天武系から天智天皇の孫である光仁天皇に移った。
光仁天皇には皇后井上内親王を通じて天武系の血を引く皇太子・他戸親王がいたが廃太子され、側室を母に持つ桓武天皇の系統が長く現在まで続く事になる。

天武天皇の血筋は皇統からは完全に絶えたものの、舎人親王の子孫が清原真人の姓を賜り清原氏の祖となり、高市皇子の子孫が高階真人の姓を賜り高階氏の祖となるなど、後世まで長く繁栄する。
但し、吉備内親王を通じて唯一妻・持統天皇の血筋を伝えていた高階氏に関しては、天武天皇の雲孫(8代孫)に当たる高階師尚を在原業平の落胤とし、以降天武天皇・持統天皇の血筋は継いでいないとする。


御寺(泉涌寺)の御位牌
天武系9代(8人)の御位牌が泉涌寺にはない
京都東山区にある通称「御寺」(みてら)「泉涌寺」は中世以来歴代の天皇家の菩提寺として、今でも多くの人々の篤い信仰を集めている。
ところが、この「泉涌寺」の歴代天皇を祀る仏間「霊明殿」から、不思議なことに天武系の9人の天皇即ち、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳の位牌だけが除外されており、天智からいきなり光仁、桓武へと続いている。

これに対する反証
斉明以前の天皇は1人も位牌がない。
当時の都である平安京の初代天皇と、その父と、やはり直系で有名な天智天皇までを奉祀の対象に設定した。
ゆえに平城京の天皇もそれ以前の天皇も、原則として奉祀されていない。


天皇陵への奉幣
歴代の天皇陵に対する奉幣の儀が、天武系の天皇に対しては、まったく行われていない
天武~称徳の山陵について奉幣の儀はがない。

これに対する反証
こちらも泉涌寺同様、天智より前の時代の天皇の陵で奉幣されているのは1つもない
また、嵯峨・淳和が奉幣の対象から外れている。


外交政策
新羅の朝鮮半島統一(676年)により新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた唐との国交を断絶した。
これは天智天皇の取った親百済政策と真反対のものだった。


陵は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)、野口王墓古墳。妻持統天皇との夫婦合葬墓である。
この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。
しかし、1235年(文暦2)に盗掘にあい、大部分の副葬品を盗まれた。
また棺も暴かれ、遺体を引っ張り出したため、墓室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。
妻の持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺だけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄された。



参考資料
「逆説の日本史2 古代怨霊編」 (小学館 1994 井沢元彦)
「天武天皇 隠された正体」 (NHKベストセラーズ 1991 関裕二)

「日本古代史の100人」 (歴史と旅臨時増刊号23巻2号 秋田書店 1996)
「古代人物総覧」 (別冊歴史読本21巻50号 1996)
「歴代天皇全史」 (歴史群像 学習研究社 2003)

Wikipedia 「天武天皇」


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天武天皇
一貫した皇族だけの皇親政治を行った。
また天皇号の創始、三種の神器の制定、古事記、日本書紀の編纂を命じたとされる。
幼名は大海人皇子(おおあまのみこ)といい、幼少期に養育を受けた凡海氏(海部一族の伴造)にちなむもので当時では養育者より幼名をとるのは慣例だった。 (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)