第35代皇極天皇  37代斉明天皇  (主として日本書紀による記載)
概説
諱、諡号等
諱       寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)。
和風諡号   天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。
漢風諡号   皇極天皇 斉明天皇

生没年
594年(推古2年)- 661年(斉明7年)

即位1 皇極天皇
即位=642年(皇極元年)-645年(皇極4年)
皇居=小墾田宮

即位2 斉明天皇
即位=655年(斉明元年)-661年(斉明7年)
皇居=飛鳥板蓋宮

崩御
崩御=661年(斉明7年7月)
陵墓=越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)
     奈良県高市郡高取町大字車木にある車木ケンノウ古墳(円墳、直径約45メートル)が指定されている。
     但し、研究者の間では明日香村の岩屋山古墳、同村の牽牛子塚古墳、橿原市の小谷古墳も陵墓の
     候補としてあげられている。


系譜
父=茅渟王(ちぬのおおきみ)
母=吉備姫王(きびひめのおおきみ)

兄弟姉妹
   軽王(孝徳天皇)

夫1=高向王
 子①=漢皇子

夫2=34代舒明天皇
 皇子①=葛城皇子(かずらきのみこ、中大兄皇子=後の天智天皇)
 皇女①=間人皇女(はしひとのひめみこ)・・・・孝徳天皇の皇后
 皇子②=大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)


     30代敏達天皇---広姫                   29欽明天皇
                ↓                             ↓
 糠手姫皇女---押坂彦人大兄皇子---大俣王(漢王の妹)  桜井皇子
          |               ↓                   ↓
          |             茅渟王(智奴王)------吉備姫王
          |                             ↓          
          ---------34代舒明天皇---宝女王(皇極天皇=斉明天皇)---高向王
                                   ↓                         ↓    
                                中大兄皇子                    漢皇子
                                間人皇女(はしひとのひめみこ)
                                大海人皇子


事績
35代皇極天皇
不明年   高向王と結婚。

630年(舒明2年)
   1月  舒明天皇の皇后に立てられる。

641年(舒明13年)
 10月  舒明天皇が死去。

642年(皇極元年)
  1月15日 即位。
  1月29日 阿曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。
  4月 8日 追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来日。
  9月 3日 百済大寺の建立と、船舶の建造を命じる。
  9月19日 宮室を造ることを命じる。
 12月21日 小墾田宮に遷る

643年(皇極2年)
 11月   蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、数日後に王は自殺。

645年(皇極4年)
  6月12日 中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を殺す。(乙巳の変へ)
  6月13日 蘇我蝦夷が自害。
  6月14日 軽皇子に譲位。新しい孝徳天皇により、皇祖母尊の称号を奉られる。

653年(白雉4年)
         中大兄皇子とともに、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に移る。

654年(白雉5年)
 10月1日  中大兄皇子とともに、病に罹った孝徳天皇を見舞うべく難波長柄豊碕宮に赴く。
 10月10日 孝徳天皇が死去。

37代斉明天皇
655年(斉明元年)
  1月 飛鳥板蓋宮で再び即位。(皇極天皇重祚)
      政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。
  7月 北の蝦夷99人、東の蝦夷95人、百済の調使150人に饗応する。
  8月 河辺麻呂が大唐から帰国。
 10月 小墾田に宮を造ろうとしたが、中止。
 
656年(斉明2年)
     飛鳥の岡本に宮を造り始める。
     香山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで垣を造る。

657年(斉明3年)
  7月 覩貨邏国(とからのくに)の男2人、女4人が筑紫に漂着したので、召す。
      須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行った。暮に覩貨邏人を饗応する。
  この年、使を新羅に遣って、僧の智達を新羅の使に付けて大唐に送ってほしいと告げる。
  新羅が受け入れなかったので、智達らは帰国。


658年(斉明4年)
 11月 蘇我赤兄が有間皇子の謀反を通報。
     有間皇子を絞首刑に、塩屋鯯肴と新田部米麻呂を斬刑にする。(有馬皇子の変)

659年(斉明5年)
  3月 吐火羅人が妻の舎衛婦人とともに来る。
     甘檮丘の東の川辺に須弥山を造って陸奥と越の蝦夷に饗応する。
     阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。
     阿倍は蝦夷集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
  7月 坂合部石布と津守吉祥を唐国に遣わす。

660年(斉明6年)
  7月 百済が唐と新羅に攻められて滅亡。
  9月 百済の建率の某と沙弥の覚従らが来て、鬼室福信が百済復興のために戦っていることを伝える。
 10月 鬼室福信が貴智らを遣わして唐の俘百余人を献上し、援兵を求め、皇子の扶余豊璋の帰国を願う。
     天皇は百済を助けるための出兵を命じ、また、礼を尽くして豊璋を帰国させるよう命じる。
 12月 軍器の準備のため、難波宮に行く。

661年(斉明7年)
  1月 西に向かって出航。
  5月 朝倉橘広庭宮に遷る
  7月 朝倉宮で崩御。68歳。



皇極天皇・斉明天皇に関する諸説
高向王との結婚
はじめ高向王と結婚して、漢皇子を産んだ。
この漢皇子が実は大海人皇子であったとする説がある。
しかし真偽は不明。


蝦夷征討
蝦夷征討の経過
蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送った。

658年(斉明4年)
4月 阿倍比羅夫が蝦夷に遠征する。
降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。

659年
3月 阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。
阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振[金且]の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。
後方羊蹄に郡領を置く。
粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。

660年(斉明6年)
3月 阿倍比羅夫に粛慎を討たせる。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。
比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。



対外政策
在位5年(660年)
百済が唐と新羅によって滅ぼされた。
百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。
百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に居て戦争に備えた。
遠征の軍が発する前に亡くなった。


土木工事
日本書紀』によれば、しばしば工事を起こすことを好んだ。
水工(みずたくみ)に溝を掘らせ、香具山(かぐやま)の西から石上山(いそのかみやま)まで溝を通した。
舟200隻に石上山の石を積んで、水の流れに乗せて宮の東の山まで引き運び、石を積み重ねて石垣とした。

そのため、労役の重さを見た人々が批判した。
時の人は、「狂心(たぶれごころ)の渠。(狂心の溝である)」と誹謗した。
この溝を掘るのに費やした人夫は7万人余りという。

有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。
  1:大いに倉を建てて民の財を積み集めた。
  2:長く溝を掘って公糧を損費した。
  3:船に石を載せて運び積んで丘にした。

この後、さらに斉明天皇は奈良県吉野に吉野宮(離宮)を造営した。
奈良県高市郡明日香村の「酒船石遺跡」が“宮の東の山の石垣”の跡ではないかといわれている。


参考資料
「新訂増補国史大系  日本書紀 前篇」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「新訂増補国史大系  日本書紀 後編」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「逆説の日本史2 古代怨霊編」 (小学館 1994 井沢元彦)
「逆説の日本史3 古代言霊編」 (小学館 1995 井沢元彦)
「日本の歴史03-大王から天皇へ」 (講談社 2000 熊谷公男)
「清張通史⑤ 壬申の乱」 (講談社文庫 1990 松本清張)

Wikipedia 「皇極天皇」


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皇極・斉明天皇
  乙巳の変・大化の改新の後、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った(史上初の譲位)。
  孝徳天皇の死後、655年に再び皇位に就いた(史上初の重祚)。
  政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。  (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)