第33代 推古天皇 (主として日本書紀による記載) | ||||
概説 | ||||
諱、諡号等 諱(実名) 額田部皇女 和風諡号 書紀:豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと) 古事記:豊御食炊屋比売命 漢風諡号 推古天皇 生没年 554年-628年 即位 即位=592年 皇居=小墾田宮(おはりだのみや) 崩御 崩御=628年4月15日 陵墓=植山古墳→磯長山田陵 |
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系譜 | ||||
父=29代欽明天皇 母=蘇我堅塩媛 配偶者=異母兄・渟中倉太珠敷皇子(第30代敏達天皇) 皇女①=菟道貝蛸皇女・・・・聖徳太子妃 皇子①=竹田皇子 皇女②=小墾田皇女・・・・押坂彦人大兄皇子妃 皇子②=尾張皇子・・・・聖徳太子の妃橘大郎女の父 皇女③=田眼皇女・・・・田村皇子(後の舒明天皇)妃 |
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蘇我稲目--- ┐ 28宣化天皇 ↓ ↓ ↓ 蘇我馬子 蘇我堅塩姫---29欽明天皇---石姫 息長真手王 ↓ ↓ ↓ ↓ 蘇我蝦夷 33推古天皇----30敏達天皇----広姫 ↓ ↓ 蘇我入鹿 押坂彦人大兄皇子 ↓ 茅渟王----吉備姫王 ↓ ↓ 35皇極天皇 36孝徳天皇 37斉明天皇 |
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事績 | ||||
571年(欽明32年) 異母兄・渟中倉太珠敷皇子(第30代敏達天皇)の妃となる。 576年(敏達5年) 3月 皇后広姫の逝去を承け皇后に立てられた。 585年(敏達14年) 8月 35歳のとき、敏達天皇が没した。 586年(用明元年) 5月 敏達天皇の殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたが、逆の方は殺されるはめとなった。 592年(祟峻5年) 11月 崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺された。 12月 馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に39歳。 593年(推古元年) 4月 甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。 602年(推古10年) 百済より観勒(かんろく)という学僧が、暦本、天文地理書、遁甲方術の書をもって来日。 暦法については玉陳(たまふる)という人物が習う。 624年(推古32年) 馬子が葛城県の支配権を望んだ。 女帝は以下の様に、この要求を拒絶した。 「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世の人には 私が愚かな女だといわれ、一方であなたも、不忠だと謗られよう」 628年(推古36年) 3月 小墾田宮において崩御。75歳。 死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭した。 さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は 避けたようである。 参照・補足 『日本書紀』推古紀によれば、18歳で皇后に立てられたとあり、これを採用した場合には欽明天皇32年(敏達天皇即位の年)に皇后となったことになる。 広姫立后の記事と矛盾することになり、広姫立后記事か推古の立后時の年齢のいずれかが誤りの可能性がある。 |
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推古天皇に関する諸説 | ||||
即位について | ||||
敏達天皇の死後、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、587年(用明2年4月乙巳朔癸丑)に病没後、穴穂部皇子を推す物部守屋と崇峻天皇を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。 そこで皇太后(額田部皇女)が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという。 しかし、5年後の592年(祟峻5年11月癸卯朔乙巳)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である12月壬申朔己卯(旧暦12月8日)に、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。 時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった(ただし、神功皇后と飯豊皇女を歴代から除外した場合)。 その背景には皇太后が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、敏達の最初の皇后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力を中心に強まったために、馬子と皇太后がその動きを抑えるために竹田皇子への中継ぎとして即位したのだと言われている。 (だが、竹田皇子は間もなく薨去してしまう)。 |
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皇太子・聖徳太子による摂政 | ||||
593年4100日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。 厩戸の父は推古天皇の同母兄の用明天皇、母も異母妹(かつ生母同士が実の姉妹関係)の間柄であり、竹田皇子亡き後において厩戸が天皇にとって最も信頼のおける血縁者であったからだと見られている。 コーネル大学のアジア研究者ジョーン・ピゴットは、このような女性天皇と男性摂政というとりあわせを、祭祀の責務と行政の責務のあいだの対位法的な関係をベースにした相補型の共同統治であると述べている。 シカゴ大学名誉教授で宗教史学者のジョゼフ・キタガワは、シャーマン的能力の持ち主で、血縁の男性を介して長期間の統治を行った受動的な女性最高権者である点が、邪馬台国の卑弥呼に似ていると述べている。 推古天皇は、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。 在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかった。 |
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参考資料 | ||||
「新訂増補国史大系 日本書紀 前篇」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美) 「新訂増補国史大系 日本書紀 後編」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美) 「日本古代史の100人」 (歴史と旅臨時増刊号23巻2号 秋田書店 1996) 「古代人物総覧」 (別冊歴史読本21巻50号 1996) 「歴代天皇全史」 (歴史群像 学習研究社 2003) Wikipedia 「推古天皇」 |
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第33代 推古天皇 | |
推古天皇 日本初の女帝。摂政に聖徳太子を置いたとされる。 (参照:皇室・有力氏族系図まとめ) |