第12代 景行天皇 (主として日本書紀による記載) |
概説 |
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諡号
古事記での呼称
大帯日子淤斯呂和氣天皇
日本書紀での呼称
大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
即位
即位年=
皇居=纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)・・・現在の奈良県桜井市穴師?
崩御
崩御
陵墓=山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬られた。
古事記』は「御陵は山邊の道上にあり」と記す。
現在、同陵は奈良県天理市渋谷町の渋谷向山古墳(前方後円墳・全長300m)に比定される。
補足1
「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつ。
このことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであるとして、12,13,14代の称号は後世の造作と考える説があり、景行天皇の実在性には疑問が出されている。
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系譜 |
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父=垂仁天皇(第三皇子)
母=日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
皇后(前)=播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ) ---若建吉備津日子の女
櫛角別王(くしつのわけのみこ)
大碓皇子(おおうすのみこ)---身毛津君(牟宜都国造)等祖
小碓尊(おうすのみこと=日本武尊)---仲哀天皇父
皇后(後)=八坂入媛命(やさかいりびめのみこと) - 八坂入彦命の女
稚足彦尊(わかたらしひこのみこと=成務天皇)
五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ)
忍之別皇子(おしのわけのみこ、押別命)
稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)
大酢別皇子(おおすわけのみこ)
渟熨斗皇女(ぬのしのひめみこ、沼代郎女)
五百城入姫皇女(いおきいりびめのひめみこ)
麛依姫皇女(かごよりひめのひめみこ)
五十狭城入彦皇子(いさきいりびこのみこ、気入彦命?) - 御使連祖
吉備兄彦皇子(きびのえひこのみこ)
高城入姫皇女(たかぎいりびめのひめみこ)
弟姫皇女(おとひめのひめみこ)
妃1=水歯郎媛(みずはのいらつめ)--- 磐衝別命の女、石城別王の妹
妃2=妃:五十河媛(いかわひめ)
神櫛皇子(かむくしのみこ) - 讃岐公(讃岐国造)・酒部公祖
稲背入彦皇子(いなせいりびこのみこ) - 佐伯直・播磨直(播磨国造)祖
妃3=阿倍高田媛(あべのたかだひめ) - 阿倍氏木事女
武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ) - 伊予御村別・和気公等祖
妃4=日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)
日向襲津彦皇子(ひむかのそつびこのみこ)
妃5=襲武媛(そのたけひめ)
国乳別皇子(くにちわけのみこ)
国背別皇子(くにせわけのみこ、宮道別皇子)
豊戸別皇子(とよとわけのみこ)
妃6=日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)
豊国別皇子(とよくにわけのみこ) - 日向国造祖
妃7=伊那毘若郎女(いなびのわかいらつめ) - 若建吉備津日子女
播磨稲日大郎姫妹 真若王(まわかのみこ、真稚彦命)
彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)
妃8=五十琴姫命(いごとひめのみこと) - 物部胆咋宿禰女
五十功彦命(いごとひこのみこと)
補足1
古事記によれば記録に残っている御子が21人、残らなかった御子が59人。
合計80人も御子がいたことになっている。
補足2
日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女。
垂仁天皇との間に景行天皇のほか2皇子・2皇女を産む。
補足3
八坂入彦命
崇神天皇の皇子で、母は未詳。
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事績 |
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垂仁37年
1月 立太子。
景行元年(71年)
7月に即位
翌2年
3月3日(72年4月9日)に播磨稲日大郎姫を皇后に立てる。
景行4年(74年)
美濃国に行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在。
八坂入媛命を妃とする。
景行12年(82年)
8月 熊襲が背いたので、これを征伐すべく、天皇自ら西下。
周防国の娑麼(さば、防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺した。
筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設ける。
豊後国の碩田(おおきた)で土蜘蛛を誅す。
11月 日向国に入る。
熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌年夏に熊襲平定を遂げた。
日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まること6年。
景行18年(88年)
3月 都へ向け出立。
景行19年(89年)
9月 還御した(なお、この天皇親征について、古事記には一切記されていない)。
景行25年(95年)
7月 武内宿禰を遣わして、北陸・東方諸国を視察させる。
景行27年(97年)
8月 熊襲が再叛。
10月 日本武尊を遣わして、熊襲を征討させる。首長の川上梟帥を謀殺し、翌年に復命。
景行40年(110年)
10月 日本武尊に蝦夷征討を命じる。
尊は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かった。
陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定する。
日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻る。
宮簀媛(みやずひめ)と結婚。
その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。
景行43年(113年)
そのまま伊勢国に入るが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御した。
白鳥陵に葬られた。
景行60年(130年)
11月 景行天皇崩御、143歳。古事記では137歳。
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景行天皇に関する諸説 |
垂仁という漢風諡号の意味 |
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『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺志により同15年2月甲子(10日)に丹波(後の丹後国を含む広義の丹波国)から後宮に迎えられ、同年8月壬午(1日)に立后、同32年7月己卯(6日)に薨じたとされる。
またその葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという。
「仁を垂れる」という意味の「垂仁」という漢風諡号はこの故事に因むものとされる。
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参考資料 |
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「口語訳 古事記」 (文藝春秋社 2002 三浦佑之)
「新訂増補国史大系 日本書紀 前篇」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
「新訂増補国史大系 日本書紀
後編」 (吉川弘文館 2000 黒坂勝美)
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