干支について
干支概説
干支とは
十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなり、十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなっており、これらを合わせて干支と呼ぶ。
もともと十二支は、十二年で天を一周する木星の軌道上の位置(天の位置)を示すための任意の数詞であった。
中国を初めとしてアジアの漢字文化圏において、年・月・日・時間や方位、角度、ことがらの順序を表すのにも用いられている。
陰陽五行説とも結び付いて様々な卜占にも応用された。
古くは十日十二辰、十母十二子とも呼称した。

起源
起源は商(殷)代の中国に遡る。
王充(おういつ)が抽象的な数詞を覚えやすく馴染み易い動物に替えて文献を書いたことから始まったと言われている。
干は幹・肝と、支は枝・肢と同源であるという。
日本、ヴェトナム、朝鮮半島など、西はロシア、東欧などに伝わった。


概略史
殷代
干支はすでに商(殷)代に現れており、殷墟出土の亀甲獣骨からたくさんの干支が日付をあらわすために用いられている。
もともと干支は、六十進法による紀日・番号・数字であった。
殷代ではこれを「十日十二辰」と呼称していたようである。
甲骨文には、干名のみで日を表すあらわすこともあり、祖王の名を「祖甲」「父丁」など、その人に関連する特定の干名で呼ぶ例があることから、十二支よりも十干の方がより基本的であったことが伺える。

春秋戦国時代
自然や世界の成り立ちを木・火・土・金・水から説明する五行思想が起こって、上を母、下を子に見立てて「十母十二子」と呼ぶようになった。
更に、それを幹と枝に喩えて「十干十二支」、それを縮めて「干支」という表記が定まった時期は、後漢代からである。

漢代
干支の組み合わせによって年を表す例が広く行われるようになった。
1日24時間を十二支に分けるようになった時期も漢代である。
十二支に対して十二獣を充当することは秦代にもみられるが、文献における初出は後漢代からである。
方位への応用も、陰陽五行思想と結びついたことによって漢代に広がった。


干支の種類
十干(じゅっかん)

十干 日本語
音読み 訓読み 意味
こう きのえ 木の兄
いつ、おつ きのと 木の弟
へい ひのえ 火の兄
てい ひのと 火の弟
つちのえ 土の兄
つちのと 土の弟
こう かのえ 金の兄
しん かのと 金の弟
じん みずのえ 水の兄
みずのと 水の弟


十二支(じゅうにし)

十二支 日本語
音読み 訓読み
ちゅう うし
いん とら
ぼう
しん たつ
うま
ひつじ
しん さる
ゆう とり
じゅつ いぬ
がい



干支にかかわる伝承
辛酉(しんゆう)革命
辛酉革命とは
中国漢代緯書にみえる予言説(讖緯)である。中国よりもむしろ日本で信じられた。
辛酉は天命が改まる年とされ、王朝が交代する革命の年で辛酉革命という。
7世紀初頭,三革説(甲子(こうし)革令,戊辰(ぼしん)革運,辛酉革命)として日本に伝えられ,聖徳太子の十七条憲法の発布が甲子(きのえね)の年,日本書紀の紀年を定めるに当たって神武紀元を辛酉の年にするなどの影響があった。
日本では、平安時代に政治的変革が起るのを防ぐ目的で、三善清行の提唱によって、辛酉年の昌泰4年(901年)が「延喜」と改元された。
それ以来、日本では慶応に至るまで、辛酉年と前年の庚申年の2年続きで改元が実施された。
しかし、中国ではこのような例はない。

日本書紀における辛酉革命
神武天皇が即位したとする年を西暦紀元前660年の辛酉の年にあてている。
これについて、明治時代の歴史学者那珂通世は、『緯書』にある鄭玄の注に、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命が起こるとの記述があることから、推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この1260年前にあたる西暦紀元前660年を即位年にあてたとの説を立てた。
また、1320年(60年×22回=1320年)周期説を採用する学者もあり、その場合、辛酉の3年後にあたる甲子年が革令(甲子革令)の年であり、白村江の戦いの翌年の甲子年(西暦664年)が基点とされる。


甲子(こうし)革命
王朝交代の革命の年である辛酉の年の4年後で、天意が革(あらた)まり、徳を備えた人に天命が下される「革令」の年、すなわち変乱の多い年とされた。
それを防ぐ目的で、日本の平安時代以降この年にはよく改元が行われた。

中国でも、後漢末に太平道の教祖張角は光和3年(180年)に「蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉(蒼天(漢朝)已に死す 黄天(黄巾党)當に立つべし 歳は「甲子」に在り 天下大吉)」とのスローガンを発しており、干支にもとづく易姓革命を意識して光和7年(184年)という甲子の年に黄巾の乱をおこした史実がある。


還暦
数え年の61歳は、生まれた年の干支に戻るので、「暦が還(かえ)った」という意味で「還暦(かんれき)」といい、歳をとる正月には、公私ともに正式に隠居して長寿の祝いをした(東洋にあっては誕生日の概念は乏しかった)。
この年齢に達すると親族などが赤い頭巾やちゃんちゃんこを贈るのは、もう一度赤ちゃんに戻って「生まれ直す」という意味合いをこめている。
現在は、満60歳の誕生日や60周年に還暦の祝いをすることが多い。
なお、2周(120年)した場合は大還暦という


三隣亡(さんりんぼう)
1月・4月・7月・10月の亥の日、2月・5月・8月・11月の寅の日、3月・6月・9月・12月の午の日を三隣亡という。
棟上げなど建築に関することの凶日とされる。


丙午
陰陽五行説によれば、丙も午もともに剛強なる陽であって火の性格をもち、中国ではその年は火災が多いなどといわれていた。



参考資料
Wikipedia「干支」、「辛酉革命」


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干支(えと、かんし) 米子(西伯耆)・山陰の古代史
十干と十二支を組み合わせた、60回ごとに一周する周期の暦。