古代の軍事制度 米子(西伯耆)・山陰の古代史
古代の軍事
国造の民兵、朝廷の軍事力へ、地方の国衙の軍事力、そして武士団の発生へと変化していった。
    国造軍−−軍団兵士制−−健児制−−国衙軍制−−武士団・軍事貴族の発生
古代の軍事制度
軍事制度概要

古代日本の律令国家は、軍事制度として軍団兵士制を採用していた。

軍団兵士制
戸籍に登録された正丁(成年男子)3人に1人を徴発し、1国単位で約1000人規模の軍団を編成する制度である。
これは7世紀後葉から8世紀前葉にかけての日本が、外国(唐・新羅)の脅威に対抗するため構築したものだった。
しかし8世紀後葉、対新羅外交政策を転換したことに伴い、対外防衛・侵攻のための軍団兵士制も大幅に縮小されることとなった。
そのため、軍団兵士制を支えてきた戸籍制度を維持する必要性も低下していき、9世紀初頭以降、律令制の基盤となっていた戸籍を通じた個別人身支配が急速に形骸化していった。


軍事制度の変遷
飛鳥時代
国造軍と呼ばれる兵力が存在し、中央・地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた。

奈良時代
律令制が導入されると軍事制度も整備され、中央官制の兵部省が設置される。
また戸籍の整備により選抜徴兵制が採用され(正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった)、徴兵された兵士は各地に設置された軍団に配属されて軍事訓練を受けた。
原則としては現地勤務であるが、一部の兵士は宮中警備を担う衛士と九州防衛を担う防人となった。
     衛士=宮中警備を担う
     防人=九州防衛を担う

平安時代
792年(延暦11年6月)、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布いた。


軍団 (ぐんだん)
軍団とその構成員士
軍団
日本古代の律令制で全国に設けられた軍事組織。
個々の軍団は、所在地の名前に「軍団」をつけて玉造軍団などと呼ばれたり、「団」を付けて「玉造団」などと呼ばれた。

兵士
軍団に所属し、有事の際の出兵や辺境防備のための防人、衛士として各地へ派遣された。
792年に一部を除いて原則的に廃止され、任務は健児に継承される。

衛士(えいし、えじ)
主に諸国で軍団が敷かれていた時期に、宮中の護衛のために諸国の軍団から交代で上洛した兵士。

防人(さきもり)
白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。

鎮兵
なお蝦夷と対峙する陸奥国には、軍団とは別に鎮守府に属する鎮兵と呼ばれる固有の兵力が常設配備されていた。


軍団の徴用
養老律令の軍防令は、正丁(せいてい、21〜60歳の健康な男)三人につき一人を兵士として徴発するとした。
この規定では国の正丁人口の三分の一が軍団に勤務することになるが、実際の徴兵はこれより少なかったようで、一戸から一人が実情ではないかとも考えられている。
兵士の食糧と武器は自弁で、平時には交替で軍団に上番し、訓練や警備にあたった。


規模と指揮系統
軍団の管理
平時の軍団は国司の下に置かれた。

軍団の規模
標準的な軍団は千人であったが、小さな国ではこれより少なかった。
その場合、八百人・六百人・四百人など二百人区切りで適当な大きさの軍団が編成されたらしい。

軍団の指揮者
大毅(だいき) - 少毅(しょうき) - 校尉(こうい) - 旅帥 - 隊正 - 火長 - (伍長)

 大毅=六百人・八百人の軍団を率いた
 少毅=二百人・四百人の軍団を率いた
 校尉=二百人を率いた(校尉は二百長とも呼ばれた)
 旅帥=百人を率いた。
 隊正=五十人からなる「隊」を率いた(隊正は隊長とも呼ばれた)
 火長=十人からなる「火」を率いた。
      火は兵士の生活・公道上の単位で、補給の最小単位。
      おそらく一つの火で十人分の食事を作ったことに由来する。

千人以上の軍団は、大毅一名と少毅二名が率いた。

伍長が五人からなる「伍」を率いたとする説がある。


配置

軍団は、一つの国に最低一つ、大きな国には複数置かれた。
軍団の指揮系統は郡以下の地方組織に対応しており、指揮官の大毅と少毅は郡司層から選ばれた。
軍団は数個郡に一つの割合で存在し、郡家の近くに駐屯して、訓練に従事した。


軍団の縮小・廃止
  軍団制度はもともと、唐や新羅の侵攻に備えたものであり、その危険が減ると必要性は薄れてきた。
このため、792年、桓武天皇により、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除いて軍団は廃止され、代わって健児の制が布かれた。


防人(防人)
防人とは
663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。

任期
任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。
大宰府がその指揮に当たり、壱岐・対馬および筑紫の諸国に配備された

防人の縮小・廃止
10世紀には実質的に消滅した。


健児(こんでい)
健児について
健児(こんでい)都は
奈良時代から平安時代における地方軍事力として整備された軍団。
健児は元々、軍団兵士の一区分だったと考えられている。

健児の要件
健児になるためには、経済力と武芸の訓練を行う時間が必要であるため、古墳時代以来の地方首長層に出自する郡司の子弟と、新たに地方経済の発展により成長を遂げた富豪百姓(田堵)のみが対象で有った。
そのため、一般農民らの兵役の負担はほぼ解消されることとなった。

健児の技能
健児は弓射騎兵であり、専門家的技能を有していたといえる。
よって職能的には次代の武士と連続性を持つといえる。
少数精鋭化が実施されたとはいえ、健児を動かすには国衙を通じて中央の承認を得る必要があり、運用の柔軟性が向上したわけではなかった。

健児の定員
国ごとに30〜100人程度と、数千人に達する軍団よりはるかに少なかった。
「試練を行なって1人を以て100人に当り得る強力な兵士」となることが求められた。


諸国ごとの員数
  山城30人、大和30人、河内30人、和泉20人、摂津30人、伊賀30人、伊勢 100人、
  尾張50人、三河30人、遠江60人、駿河50人、伊豆30人、
  甲斐30人、相模100人、武蔵105人、安房30人、上総100人、下総 150人、常陸200人、近江200人、
  美濃100人、信濃100人、上野100人、下野100人、若狭30人、越前100人、能登50人、越中50人、越後100人、
  丹波50人、丹後30人、但馬50人、因幡50人、伯耆50人、出雲100人、石見30人、隠岐30人、
  播磨100人、美作50人、備前 50人、備中50人、備後50人、安芸30人、周防30人、長門50人、
  紀伊30人、淡路30人、阿波30人、讃岐50人、伊予50人、土佐30人となっている。

健児の任務
諸国の兵庫、鈴蔵および国府などの守備であり、郡司の子弟を選抜して番を作り任に当たらせた。
健児約5人で1番を組織し、数番を作り、国庫の守備に交互に勤務させ、1人の勤務は1年間約60日と定められた。
延暦14年閏7月勅によって日限を最長30日と短縮し、これによって従前の1番を分けて2番として1番あたりの人数を減じた。
しかし分衛が十分でなかったため、日限を元通りの2倍にする代わりに、健児の調は免じられ、より軍務に専念させるようになった。
平安時代中期貞観8年11月に勅をもって、その選任に意を用い、よく試練を行なって1人を以て100人に当り得る強力な兵士となすべきことを国司に命じた。


国衙軍制(こくがぐんせい)
国衙軍制とは
国衙軍制とは
朝廷は、国衙・受領の地方行政に、軍事権に関しても裁量を認め、彼らを軍事力として取り込んだ制度。
日本の古代末期から中世初頭にかけて(10世紀 - 12世紀)成立した国家軍事制度を指す歴史概念。
律令国家が王朝国家へと変質し、朝廷から地方行政(国衙・受領)へ行政権を委任する過程で成立したとされる。
また国衙軍制は、軍事貴族および武士の発生と密接に関係していると考えられている。

国衙軍制の成立経過
中央から派遣された国司は、土着の豪族である郡司や富豪百姓を通じた支配を行った。
国司は実績をあげるため、郡司・富豪層へ過度な要求を課することが多くあり、これに対する郡司・富豪層らの抵抗が群盗海賊という形態で現出した。
これに対しては、健児の軍事力だけではこれに対応することができず、富豪百姓が自衛のために武装して対抗した。
朝廷は、国衙・受領の地方行政に、軍事権に関しても裁量を認め、彼らを軍事力として取り込んだ。
これは国衙軍制と呼ばれている。
9世紀末に東国で寛平・延喜東国の乱が発生すると、朝廷は発兵(健児以外の臨時徴兵)などの裁量権を受領に与えると共に追捕官符(本来は逃亡者追捕のための太政官符)を国衙へ発給した。
国衙軍制における兵士も、また郡司・富豪層であった。



武士の誕生
武士団の発生
  寛平・延喜東国の乱
平安中期に東国で発生した群盗による乱。
889年(寛平元年)、強盗首物部氏永(もののべのうじなが)等が蜂起し発生した。
これらの鎮圧過程で延喜年間に軍制の改革が進められ、国衙の軍事動員に対する規制が緩和された。
従来は中央政府に発兵権があったが、国毎に警察・軍事指揮官として押領使を任命し、中央からの「追討官符」を受けた受領の命令で押領使が国内の武士を動員して反乱を鎮圧する体制に移行したとする説がある。
また、坂東平氏の東国支配の要因ともなった。

最初期の武士
寛平・延喜東国の乱の鎮圧に勲功をあげた「寛平延喜勲功者」が最初期の武士であったと考えられている。
彼らは、田堵負名として田地経営に経済基盤を置きながら、受領のもとで治安維持活動にも従事するという、それまでにない新たに登場した階層であった。
在地武士たちは、戦力を一定以上確保するために、自らに従う者を郎党と呼んで主従関係を結すび、また血縁関係者である「家の子」も合わせ、武士団が形成されていった。


武士起源論
  武士の起源に関しては諸説があり、まだ決定的な学説があるわけではない。
主要な学説としては以下の3つを挙げることができる。

  在地領主論:古典的な、開発領主に求める説
  職能論:近年提起された、職能に由来するという説
  国衙軍制論:律令制下での国衙軍制に起源を求める説


参考資料

ウキペディア 「軍団兵士」  「防人」  「衛士」  「健児」  「国衙軍制」  


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