波多氏について
概説
本貫地
大和国高市郡羽田郷(奈良県高市郡高取町)を本拠地とした古代在地豪族

氏姓
姓は臣(おみ)、後に真人。

表記について
 古事記・・・・・・建内宿禰(たけしうちのすくね)の長男:波多八代宿禰  
 日本書紀・・・・武内宿禰の長男:羽田矢代宿禰

 (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)


系譜
系譜  
   祖:武内宿禰
       ↓
   1: 羽田矢代宿禰
       ↓ 
   2: 羽田黒川
       ↓ 
   3: 羽田林大野
       ↓ 
   4: 羽田石嶋
       ↓ 
   5: 羽田武古
       ↓ 
   6: 羽田黒人
       ↓ 
   7: 羽田久須古
       ↓ 
   8: 羽田広山→→羽田氏末裔へ



氏族の事績
神功皇后期
仲哀天皇の死後懐妊中の神功皇后は、武内宿禰とその長男羽田氏、次男の巨勢氏等と共に三韓征伐を行った。  
九州に戻った時に神功皇后は誉田別命(ほんだわけめのみこと)、後の15代応神天皇(201-310年)を産んだ。

応神期
応神天皇3年に、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、弟紀角宿禰(きのつねのすくね)らと共に百済に遣わされ、その無礼を責めた。
百済は辰斯王を殺して謝罪したので、宿禰らは阿莘王を王にたて帰国したという。

17代履中期
波多氏の娘の黒媛(くろひめ)は17代履中天皇の后となった。

推古期
33代推古天皇(593年-628年)の時に波多を羽田と改め副将軍となる。

天武期
八色の姓では、八多真人が最高位の真人の姓を受ける。



羽田氏の人物
羽田矢国(はたのやくに)
概説
生年不明 --686年(朱鳥元年)没)
姓(カバネ)は公、後に真人。大弁官。贈直大壱。
壬申の乱で天智側から大海人皇子(天武天皇)側に寝返り、琵琶湖北回りの軍を率いて三尾城を攻略した。

生涯
672年7月
羽田矢国は近江の朝廷の軍の将として、山部王、蘇我果安、巨勢比等(巨勢人)が率いた数万の軍の中にあった。
この軍は琵琶湖東岸を進んで美濃国の不破にある大海人皇子の本拠を攻撃しようとしたが、7月2日頃に果安と比等が山部王を殺したため、混乱して止まった。
このとき、近江の将軍羽田公矢国とその子大人らは己の族を率いて大海人皇子側に寝返った。
斧鉞を授かり、将軍となり、ただちに北越に行くよう命じられた。

7月22日、矢国は出雲狛とともに三尾城を攻め、これを降した。
この三尾は、現在の滋賀県高島市にある三尾里にあたると推定されている。
同じ日に味方の主力軍は瀬田で敵の最後の防衛線を破った。
翌23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺し、乱は終わった。

672(天武元年)12月
戦後、壬申の乱での勲功者の冠位が進められ、小山(しょうせん)の位以上が与えられた。
羽田矢国もそれ以上の位を授けられたと考えられる。

684年(天武13年)
羽田氏は真人の姓を与えられた。

686年(天武15年)
大弁官直大参羽田真人八国が病気になったため、僧3人を得度させた。
八国は25日に逝去。直大壱の位が贈られた。


羽田大人(はたのうし)

概説
羽田矢国の子。生没年不明
壬申の乱が勃発したとき、父とともに従軍。



参考資料


Wikipedia「羽田氏」


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羽田(波多)氏 米子(西伯耆)・山陰の古代史
波多氏
武内宿禰の長男、羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする豪族。  (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)