忌部氏 |
概説 |
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本貫地
現在の橿原市忌部町。
氏姓
始めは忌部首を称する。
天武天皇9年(680年)1月8日に、連(むらじ)の姓を与えられた。
天武天皇13年(684年)12月2日に他の連姓の50氏とともに宿禰(すくね)になった。
延暦22年(803年)3月に古語拾遺の撰者である浜成に至り「忌部」から「斎部」に改めた。斎部宿禰に改称する。
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系譜 |
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系譜 |
氏族は多数に及び、各地に広がっている。
九州・紀伊半島・四国・房総半島などに勢力をもった。
北陸(越前国)、山陰(出雲国、隠岐国)、山陽(備前国)などにも忌部氏末裔が存在。
阿波国の阿波忌部氏・・・・天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祖とする。
讃岐国の讃岐忌部氏・・・・手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖とする。
紀伊忌部氏・・・・彦狭知命(ひこさしりのみこと)を祖とする。
出雲国の玉作氏(たまつくりし)・・・・櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)を祖とする。
筑紫国・伊勢国の忌部氏・・・・天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祖とする。
また、四国の阿波と房総半島の安房が何れも「あわ」と読むのは忌部氏が阿波から安房に行った際に命名されたとも言われている。
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忌部氏嫡流
高皇産霊命--天太玉命--天櫛耳命--天富命--弥麻爾支命--和謌富奴命--佐久耳命
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阿加佐古命--玉久志古命─多良斯富命──麻豆奴美美足尼──佐岐大人足尼──多比古足尼
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達奈弖--那美古--豊止美--宇都庭麿--佐賀斯--子麿--狛麻呂--虫名
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斎部浜成--広成--明成--伴主--文山--季長--茂藤--春光--頼友--頼成
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頼親--親光--親澄----織田親真(織田神社神主家)
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事績 |
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神武天皇時代
天富命は神皇産霊命(度会氏、賀茂氏の祖)裔の天日鷲命を率いて阿波に赴き麻穀を播殖させ、更に阿波斎部を分かち東国に赴き安房斎部を成立させる。
飛鳥時代
中臣氏と勢力を争ったが、あまり振るわず、次第に衰退していった。
後世の斎部氏は次第に衰微して多くは神官として現代に至る。
平安時代
807年、斎部広成が平城天皇の召問に応じ『古語拾遺』を著した。
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忌部氏の人物 |
天富命(あめのとみのみこと) |
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概要
太玉命(ふとだまのみこと)の孫。
神武天皇に天種子命(中臣氏遠祖)らと仕え、祭祀を担当。
橿原宮の造営にも携わった。これらの功により大夫に列せられた。
生涯
神武天皇のため橿原(かしはら)の御殿をつくった。
また斎部(忌部)(いんべ)をひきいて神宝の鏡、玉、矛(ほこ)、盾(たて)、木綿(ゆう)、麻をつくらせた。はじめ阿波(あわ)、ついで安房(あわ)に移住。麻をうえ、太玉命の社(やしろ)をたてたといわれる。
補足
神武天皇の御命令を受けられた天富命(下の宮御祭神)は、肥沃な土地を求められ、阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀(カジ=紙などの原料)を植えられ開拓を進められました。
その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。
この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀咩命をお祭りされており、これが現在の安房神社の起源となります。
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斎部広成(いんべひろなり) |
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概要
生没年不詳。平安時代初期(8世紀から9世紀頃)の官人。姓は宿禰。神祇少副斎部浜成の子。
子に伴主・木上・弟上がいた。官位は従四位下・神祇大副。
生涯
大同2年(807年)平城天皇の召問に応じ『古語拾遺』を著した。
これは、斎部氏(=忌部氏)は中臣氏とともに朝廷における祭祀をあずかってきたが、中臣氏から藤原氏が出て権力を持つようになると、中臣氏は祭祀に関して力を持つようになり、斎部氏(忌部氏)はその圧迫を受けるようになったことから、斎部氏の権利を主張したものである。
この結果、翌大同3年(808年)従五位下に叙せられている。
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忌部氏に関する諸説 |
忌部氏と竹取物語 |
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竹取物語流布本にかぐや姫の名付け親を「みむろとのいんべのあきた」(三室戸斎部秋田)とあり、また竹取の翁の名を「さぬきのみやつこ」とあるのを、この氏族と結びつけ、作者を忌部氏の人とする説や、讃岐忌部と作者の関係を指摘する説がある。
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忌部氏と織田信長 |
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戦国大名織田氏は桓武平氏を称するが、織田神社神主家と同族の斎部氏説が有力である。
織田氏は劔神社の神官である越前忌部(斎部)氏の支流(あるいは越前藤原氏とも)であるが、後に桓武平氏の系統と仮冒した。
長徳4年(998年)3月21日、藤原行成の「権記」に越前劒大神宮神主 伊部守忠という名前が見える。
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参考資料 |
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「古代豪族系図集覧」 (東京堂出版 1993)
ウキペディア「忌部氏」 |
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