秦氏 米子(西伯耆)・山陰の古代史
秦氏(はたうじ)
応神朝時代に来たとされる有力な渡来系氏族。秦の始皇帝の末裔を称するが明確でない。
  (参照:皇室・有力氏族系図まとめ)
秦氏について
概要
1:秦氏の本拠地
①山背国葛野郡太秦
秦河勝が建立した広隆寺がある。
この地の古墳は6世紀頃のものであり、秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される。
山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。
秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。

②河内国讃良郡太秦
付近の古墳群からは5-6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。
伝秦河勝墓はこの地にある。


系譜
1:出自
日本書紀より

応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)

②その他の説
五胡十六国時代に?族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。
この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少ない。

2:系譜
   1:弓月君(融通王)(ゆづきのきみ)
      ↓
   2:浦東君
      ↓
   3:秦酒公(はだのさけのきみ)
      ↓
   4:秦意美
      ↓
   5:秦宇志
      ↓
   6:秦丹照
      ↓
   7:秦河勝 秦弁正 秦朝元
      ↓
   8:秦石勝
      ↓
   9:秦牛麿
      ↓
   10:太秦嶋麿→→その他多くの秦氏へ
    
2:主な後裔
①秦酒公(はだのさけのきみ)
    21代雄略天皇は、雄略15年秦の民が分散して諸豪族の配下になっていたのを集めて酒公に与えた。
    彼はその礼として大量の絹織物を宮廷にうずたかく積み上げて献上した。
    天皇は彼に「うずまさ」の姓を与えた。
    太秦と書いて「うずまさ」(禹豆麻佐・埋益とも記す。)と読むのもこのためであると言われている。

②秦河勝
    33代推古天皇から大化頃にかけて朝廷に仕えた。
    特に聖徳太子に重用され、京都太秦広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は聖徳太子から賜ったものとされている。
    太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。
    610年新羅使節導者に任命される。

②秦久麻
    聖徳太子時代の人。天寿国繍帳(中宮寺)の製作者

④秦朝元
    703-4年頃に唐で唐人女の子供として生まれ718年帰国。
    この時の遣唐副使が藤原式家の宇合であった。
    この縁で後年朝元の娘と宇合の息子清成が結ばれ、種継を生むことになると、言われている。
    こうして娘達を藤原氏に嫁がせるようになった。


事績
応神朝以後
大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。
山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。

雄略天皇の時代
秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部、秦人の統率者となったという。

欽明天皇の時代
秦大津父(おおつち)が伴造となり大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしい。


秦氏が創建に関係した主な神社・寺院
松尾大社
5世紀ごろ、渡来人の秦氏が山城国一帯に居住し、松尾山の神(大山咋神)を氏神とした。
大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させた。
秦氏は酒造の技術も日本に伝えたことから、中世以降、松尾神は酒造の神としても信仰されるようになった。

伏見稲荷大社
和銅年間(708〜715年)(一説に和銅4年(711年)2月7日)に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる秦氏にゆかり深い神社である

木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)
この神社がある嵯峨野一帯はかって朝鮮半島から渡来した秦氏が製陶、養蚕、織物などの技術を持ち込んだ。
蚕が祀られているのもそれゆえである。

大避神社
千種川流域を開墾したとされる秦河勝が大化3年(647年)に没し、地元の民がその霊を祀ったのが始まりとされる。

広隆寺
蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。
帰化人系の氏族である秦(はた)氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。


秦氏に関する諸説
秦氏と太秦(うずまさ)
太秦(うずまさ)
京都市右京区および大阪府寝屋川市にある地名。
前者が特に知られている。

「太秦」という地名の由来諸説
渡来系の豪族秦氏がヤマト政権に税を納める際、用いた絹が「うずたかくつもられた」ことから、朝廷から「うずまさ」の姓を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てたという説。
秦氏の拠点であったことから、拠点という語義を「太い」という字で表し、「まさ」は秦氏の「秦」をもって表記し、「うずまさ」と呼ぶようになったという説。
古代ヘブライ語の「ウズ」(光)、「マサ」(賜物)が語源であるとする説。
広隆寺の記録などから、6世紀頃に河内国讃良郡太秦(現在の大阪府寝屋川市太秦)を本拠地とした秦河勝が、現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築き、この地を朝廷より与えられ、直轄領としたかこの地に本拠を移したと考えられる。


応神天皇と秦氏
応神天皇以後の古墳が巨大化する。
これは秦氏の持っていた土木技術が影響していたとす説もある。



参考資料
「秦氏の研究」 (大和書房 1993 大和岩雄)

Wikipedia 「秦氏」


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