蝦夷と俘囚 米子(西伯耆)・山陰の古代史
俘囚
奥州における蝦夷征服戦争の中で生じた大量の帰服蝦夷を指し、当時、国は、これら俘囚を強制的に全国各地に再配置(内国移配)し、税を免除し生計費(俘囚料)を与えて扶養していた。
このうち隷属の度合いが高いものを俘囚、低いものを夷俘(いふ)という。
   蝦夷夷俘俘囚
 
俘囚について
概説

 
俘囚とは
陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったものを俘囚という。
7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で、大和へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられた者達である。
俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除された。
しかし実際に移配俘囚が定住先で自活することはなく、俘囚料の給付を受け続けた。
記録に残るもので2,000名,延喜式の推計からは4,600名, 実際には10,000名を上回る人々が35ケ国に分散して,強制的に移住させられたと見られている。

俘囚と移配
これは再反乱を防ぐとともに、俘囚を傭兵として機能させる目的の施策であった。
774年(宝亀5年)にいわゆる「三十八年戦争」が始まった頃から、急激に俘囚の移配が増加する。
しかも、中には夷俘に分類されていた者までが移配され、その移配先も関東地方など全国各地に広がっていくことになる。
この移配政策は817年に終了する。
この間、国衙に俘囚の教喩を行わせ、公民化を図らせた。
朝廷は国司に「俘囚専当」を兼任させ、俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせた。

9世紀 俘囚の地域配置

下向井龍彦 『日本の歴史 7巻』 講談社 2001から引用


奥羽俘囚
陸奥・出羽にとどまった俘囚は、同じ地域の朝廷派の人々と異なり、租税を免除されていたと考えられている。
詳細は後述。

二次移配
実際には俘囚・夷俘は移配先に馴染めずにたびたび地域との衝突や反乱を起こしたために、811年(弘仁2年)に陸奥国より俘囚を現地に止めて支配を行う旨の奏請が行われて受理された。
以後、大規模な移配は行われなくなり、代わって既に移配された俘囚・夷俘を小規模集団単位で二次移配する事例が増加する。

俘囚の帰還
やがて、897年(寛平9年)には移配した蝦夷を奥羽へ送還する政策を打ち出した。
これにより全国へ移配されていた蝦夷のほとんどは奥羽へ還住することとなった。


俘囚の生活
  俘囚の生活
一般の公民百姓らとは大きく異なる生活様式を有しており、狩猟および武芸訓練が俘囚生活の特徴であった。
口分田の支給庸調の免除が為されていた。
漁労狩猟が許されていた。
これによって俘囚の生活はかなり裕福なものであった事が推測される。
しかし、公民から差別を受けていた事実もある。

夷俘長
812年(弘仁3)、俘囚と公民百姓の差異に対応するため、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出している。

俘囚料
俘囚料とは俘囚のための給付米であり、「各国が春に一定数量の稲(本稲)を農民に強制的に貸し付け、秋の収穫時に三割の利息(利稲)を徴収するという公出挙(くすいこ)、税の一種であって、その利息の稲をもって俘囚などの食料や禄料(ろくりょう・支給物品購入費とする)に あてることにしたもの」である。
『延喜式』(927年完成)によると、律令国家68カ国のうち、35カ国に俘囚が居住している。
『延喜式』には、俘囚の食料費が記録されている。
35カ国の俘囚料の合計109万5509束は、4565人ほどの俘囚を養うことができる数であるという。

『延喜式主税上(927年)』より
   美作国税   公廨各三十万束。国分寺料四万束。文殊会料二千束。修理池溝料三万束。
           道橋料一千束。救急料八万束。施薬院料一千束。俘囚料10,000束
   備前国税   公廨料各三十八万束。()俘囚料4340束
   備中国税   公廨料各三十万束‥(略)俘囚料3.000束
  伯耆国    俘囚料13,000束(=260石=180人くらい。しかし延喜式には54人と記載されている)
  因幡国    俘囚料 6,000束

畿内を除く俘囚料総計が1,095,000束であるが,その30-40%を俘囚の食料費として計算されている。
その結果、俘囚は4500名。
       (50束=1石、10束=2斗 1束=2升)
       (1名あたり、約72束(1,4石)ぐらいとなる)

その後の「弘仁式・主税」では俘囚料はなくなる。
『延喜式主税上』 (927年)より



俘囚の戦闘技術
  俘囚の戦闘力
9世紀、移配俘囚は国内の治安維持のための主要な軍事力として位置づけられていた。
この時、俘囚の安定した生活と狩猟特権が武芸訓練を可能にしていたため、俘囚達は騎馬個人戦術疾駆斬撃戦術によって群盗海賊の殲滅に大きく貢献できた。

俘囚戦闘技術の影響
俘囚が有していた狩猟技術・武芸技術は、乗馬と騎射を中心とするものであり、俘囚の戦闘技術は当時登場しつつあった武士たちへ大きな影響を与えた。
例えば俘囚が使用していた蕨手刀は、武士が使用することとなる毛抜形太刀へと発展している。
このように、俘囚の戦闘技術は揺籃期の武士へと継承されていったのである。

律令政府では弱体化した防人や軍団に替わって蝦夷を用いる構想などを打ち出している
    (貞観11年(859年)12月5日付太政官符(『類聚三代格』))


俘囚の反乱・騒乱
  俘囚の反乱
寛平(889~898年)から延喜初年(901年)にかけては、各地に群盗海賊が出現。
これを俘囚が傭兵として追補。
この時、俘囚の安定した生活と狩猟特権が武芸訓練を可能にしていたため、俘囚達は騎馬個人戦術疾駆斬撃戦術によって群盗海賊の殲滅に大きく貢献できた。

傭兵として追補に貢献していた俘囚であったが、その報酬が十分に賄われなくなって行った。
それに不満を抱いた俘囚が各所で反乱を起こす結果となった。
すなわち、俘囚らによる処遇改善要求が原因で、各地で俘囚による乱が発生した。

1:814年 出雲国 「荒橿(あらかし)の乱」
①『類聚国史』巻190より
「〇二月戌子(*10日)。夷(エミシ)第一等遠膽澤公母志に、外従五位下を授く。
出雲の叛俘を討つの功を以てす。……〇癸巳(*15日)。
出雲国俘囚吉弥侯部高来(きみこべのたかき)・俘囚吉弥侯部年子(としね)に、各(おのおの)稲三百束を賜う。
荒橿(あらかし)の乱に遇(あ)い、妻孥(さいど *妻子)害されるを以てなり。
〇五月甲子(*18日)。出雲国意宇(おう)・出雲・神門(かんど)三郡の未納稲十六万束を免除す。
俘囚の乱が有るに縁(よ)ってなり」。

②現代訳
この年の2月以前に俘囚の反乱があり、その鎮圧に参加した遠膽澤公母志が外従五位下を授けられる。
この時かあるいは別の叛かは不明であるが、荒橿の乱で妻子が殺された俘囚も、稲300束を授けられている。
乱は2月で終わらず、5月にはさらに拡大している。
出雲3郡の全倉(*貯稲穀に欠損がない倉)の倉が焼き打ちになっている。
遠胆沢公母志が、意宇(おう)郡・出雲郡・神門(かんど)郡の3郡にまたがる大規模な乱を起こした叛俘(謀叛を起こした俘囚)を討った功績で外従五位下を授けられた。俘囚の反乱は俘囚によって鎮圧された(『類聚国史』892年)。

③補足
延喜式によると、出雲の俘囚数は54人だが、3郡にまがたる大規模な反乱は、さらに多くの俘囚が移配されたことを物語っている。
814年ごろには多くの蝦夷系の人々が生活していたと考えられる。

2:875年(貞観17年) 「下総俘囚の乱」
『日本三代実録』貞観17年(875)5月10日条より。
下総国で俘囚が反乱を起こし、官庁と寺を焼き人民を殺傷し略奪した。
朝廷は同国に俘囚討伐の命令を下し、同時に武蔵上総常陸下野などの諸国に兵300人ずつを徴発して下総に増援として送ることを命じた。

3:878年 「元慶の乱」
秋田県北部の蝦夷が秋田城駐在国司の苛政(かせい)を訴え、秋田城などを焼き打ちした事件。
官軍は苦戦して鎮圧は難航したが、藤原保則が寛政によって鎮撫して終息した。
一方でこれは、朝廷の力が低下して坂上田村麻呂の時代のように武力によって夷俘を制圧できなくなっていたことも意味していた。
夷俘は降伏したが朝廷による苛政をくつがえし、力を示したことで一定の成功を収めたと考えられる。
乱後、秋田城は保則の手により再建された。
出羽国司次官である介が受領官に格上げされると共に、秋田城常駐となり軍事機能も強化された。

4:883年 「上総俘囚の乱」
上総国市原郡で40人あまりの集団が「官物を盗み取り、 人民を殺略。民家を焼き、山中に逃げ入」る。
当局は「国内の兵千人で追討」する許可をもとめる。
朝廷は「群盗の罪を懼れて逃鼠した」に過ぎず、人夫による 捜索・逮捕で十分であるとし、国当局の申請を棄却する。
結局、俘囚は全員が処刑される。
太政官は討伐隊の戦功をたたえつつも、①渠魁を滅ぼし、梟性を悛めることがあれば務めて撫育せよ。②事態が急変したのでなければ、律令に勘據し太政官に上奏せよ、と注文。

5:895年 寛平・延喜東国の乱
強盗首物部氏永(もののべのうじなが)等が蜂起し発生した乱。
物部氏永をリーダとする坂東群盗が蜂起し、信濃・上野・甲斐・武蔵等の諸国が大きな被害を受ける。
諸国が共同して追討しようとすると、彼らは上野国碓氷・相模国足柄を越境して逃走。

*その結果-1
こうした事態に頭を悩ませた朝廷は、897年(寛平9)、移配俘囚を奥羽へ送還する政策を打ち出した。
これにより全国へ移配されていた俘囚は奥羽へ還住することとなった。 

*その結果-2
こうした一連の軍制改革によって国衙軍制が成立し、この新たな軍制にもとづく群盗鎮圧を通じて武士が登場する。
①軍事動員における受領の裁量権を強化
本来の捕亡命(びもうりよう)臨時発兵規定では、国衙が軍事動員するためには、政府に飛駅奏言(天皇への緊急報告)し、発兵勅符(天皇の緊急動員令)を出して貰わねばならない。
しかし、この乱の鎮圧過程で飛駅奏言を受けた政府は、しばしば発兵勅符を出すのをやめ、より簡便な太政官の鎮圧命令である追捕官符を下した。
追捕官符の場合、人夫(非武装追捕要員)なら受領の裁量で何人でも動員できた。
政府があえて追捕官符を出したのは、受領に鎮圧の責任と軍事動員の裁量権を委ねようとしたからであった。
この方針は、元慶7年(883)2月の上総俘囚の乱に対する対応を継承したものであり、国内支配を受領に委任する国制改革の基調と同じである。

②国衙の群盗追捕指揮官として、国ごとに押領使を任命
押領使は、追捕官符を受けた受領の命に従い、国内武士を動員して反乱を鎮圧することを任務とする、国単位の軍事指揮官である。
将門の乱後に常置されるようになり、鎌倉幕府の守護制度に受け継がれていく軍事的官職で、寛平・延喜の群盗鎮圧のときに始めて置かれる。
鎮圧責任を負う受領は、押領使にそれを委任した。

③王臣家人であっても武勇に優れた者は国衙の動員に従うことを義務づける
天慶2年(939)4月、出羽俘囚の乱に対し、政府は 「国内浪人は高家(こうけ、王臣家)の雑人(ぞうにん)を問わず軍役に宛てよ」と命じるが、この動員の仕方は寛平・延喜東国の乱鎮圧でも適用されたものと思われ、彼らは押領使の指揮下に入って戦った。


蝦夷外(日本人)で俘囚となってしまった例

『続日本紀』神護景雲3年(769年)11月25日条に、元々は蝦夷ではないのに俘囚となってしまった例が記述されている。

陸奥国牡鹿郡の俘囚である大伴部押人が朝廷に対し、先祖は紀伊国名草郡片岡里の大伴部直(あたい)といい、蝦夷征伐時に小田郡嶋田村に至り、住むようになったが、その子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚となってしまったと説明し、今は蝦夷の地を離れ、天皇の徳の下で民となっているので、俘囚の名を除いて公民になりたいと願い出たため、朝廷はこれを許可したと記される。

宝亀元年(770年)4月1日条にも、父祖は天皇の民であったが、蝦夷にかどわかされ、蝦夷の身分となってしまったという主張があり、敵である蝦夷を殺し、子孫も増えたため、俘囚の名を除いてほしいと願い出たため、朝廷がこれを許可している。



俘囚とされる人物、氏族
奥羽俘囚
陸奥・出羽にとどまった俘囚は、同じ地域の朝廷派の人々と異なり、租税を免除されていたと考えられている。
彼らは陸奥・出羽の国衙から食糧と布を与えられる代わりに、服従を誓い、特産物を貢いでいた。
俘囚という地位は、辺境の人を下位に置こうとする朝廷の態度が作ったものであるが、俘囚たちは無税の条件を基盤に、前記の事実上の交易をも利用して、大きな力を得るようになった。
これが、俘囚長を称した安倍氏 (奥州)俘囚主を称した出羽清原氏俘囚上頭を称した奥州藤原氏の勢威につながった。
しかし、奥州藤原氏の時代には、俘囚は文化的に他の日本人と大差ないものになっていたと考えられる。
奥州藤原氏の滅亡後、鎌倉幕府は関東の武士を送り込んで陸奥・出羽を支配した。
俘囚の地位を特別視するようなことは次第になくなり、歴史に記されることもなくなった。
なお、海保嶺夫(1943年 - )は中世津軽地方の豪族安東氏を俘囚長と同様の存在としている


奥州阿部氏
  概要
俘囚長であったとの説が広く流布している。文献上では、
康平7年の太政官符に「故俘囚首安倍頼時」との記載がある。

事績
安倍氏は婚姻などによって勢力を拡大し、忠良の子、安倍頼時の代に最も勢力を広げた。
安倍氏は奥六郡(現在の岩手県内陸部)を拠点として糠部(現在の青森県東部)から亘理・伊具(現在の宮城県南部)にいたる地域に影響力を発揮していた。
しかし後に頼時が朝廷と対立し、源頼義率いる官軍との間で前九年の役が起こる。
頼時は途中で戦死し、その後を子の安倍貞任が継いだが、仙北の俘囚主清原氏が度重なる頼義の要請に応えて参戦すると支えきれず安倍氏は敗れ貞任も戦死して安倍氏は勢力を失った。
頼時の三男・安倍宗任、五男・安倍正任はそれぞれ、伊予(のちに筑前の宗像)、肥後に配流された。
また、亘理(宮城県亘理町)の豪族で、安倍氏に加担して没落寸前となった、
奥州の藤原氏当主・藤原経清の妻となっていた頼時の娘(有加一乃末陪)は清原武貞の妻となり、息子(後の藤原清衡)も武貞に引き取られ、養子となった。
清原氏は安倍氏の地位を受け継いだが、後三年の役で滅亡し、清衡がその地位を継承して奥州藤原氏が興隆することとなる。


出羽清原氏
概要
出羽国(後の羽後国)の在庁官人、清原令望が俘囚長に任ぜられ、仙北三郡を支配したとする説があるが定説はない。

事績
清原氏はこの俘囚の主(『陸奥話記』)と史料に見える。
自身も俘囚の一族ではないかとも考えられているが、系図では中央貴族である清原氏の深養父系とされている。
しかし深養父の子から出羽清原氏に繋がる部分の信憑性に疑問があることから、元慶の乱で都から来た清原令望を祖とする在庁官人ではないかともいわれている。
『陸奥話記』等でも安倍氏と違い「真人」の姓が明記されており、鎮守府将軍に補任されることが出来たことからも単なる俘囚ではないとする見解が多いが、実際の家系についてはまだ不明な点が多い。
1990年代以降、武則系を海道平氏(岩城氏)の一族とする説が唱えられると、これを強化する論考が続き、有力な説とする論考も現れている。

奥州藤原氏
  概要
前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族。藤原北家秀郷流を称した。

事績
この前九年の役の前半、安倍氏の当主であったのが頼時である。
頼時は天喜5年(1057年)に戦死し、その息子の安倍貞任は康平5年(1062年)に敗死して安倍氏は滅亡したが、頼時の娘の1人が前述の亘理郡の豪族・藤原経清に嫁ぎ男子をもうけていた。
経清は安倍氏側の中核にあり、前九年の役の終結に際し頼義に捕らわれ斬首されたが、その妻(つまり頼時の娘)は頼義の3倍の兵力を率いて参戦した戦勝の立役者である清原武則の長男・武貞に再嫁することとなり、これにともない安倍頼時の外孫である経清の息子もまた武貞の養子となり、長じて清原清衡を名乗った。
永保3年(1083年)、清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡(武貞の子)と清衡、そしてその異父弟の清原家衡との間に内紛が発生する。
この内紛に源頼義の嫡男であった源義家が介入し、清原真衡の死もあっていったんは清原氏の内紛は収まることになった。
ところが義家の裁定によって清原氏の所領だった奥六郡が清衡と家衡に3郡ずつ分割継承されると、しばらくしてこれを不服とした家衡が清衡との間に戦端をひらいてしまった。
義家はこの戦いに再び介入し、清衡側について家衡を討った。この一連の戦いを後三年の役と呼ぶ。
真衡、家衡の死後、清原氏の所領は清衡が継承することとなった。
清衡は実父・経清の姓である藤原を再び名乗り、藤原清衡となった。
これが奥州藤原氏の始まりである。


佐伯氏
  佐伯部
古代日本における品部の1つであるが、ヤマト王権の拡大過程において、中部地方以東の東日本を侵攻する際、捕虜となった現地人(ヤマト王権側からは「蝦夷・毛人」と呼ばれていた)を、近畿地方以西の西日本に移住させて編成したもの。

佐伯氏
中央伴造として佐伯部を率い、宮門警備や武力勢力として朝廷に仕えた。因みに警備を担当した宮門は、氏族名から「佐伯門」と名付けられたが、平安宮では唐風文化の影響から、「さへき」に音通する「藻壁(そうへき)門」と改められた。姓は初め「連」であったが、天武天皇13年(685年)に同族の大伴氏等とともに「宿禰」を賜姓された。
奈良時代以降、たびたびの政争に巻き込まれ、そのたびに一族から処罰される者を出した事なども影響し、徐々に衰えた。
 


俘囚に関する諸説
俘囚と別所
全国「別所」地名事典(上)』 からの引用
    柴田 弘武 著 B5 / 871ページ / 上製定価:9,500円 + 税
     1932年神奈川県藤沢市生まれ。
     1955〜92年 東京都の高校教員。
     えみし学会会長、郷土教育全国協議会・史遊会・たたら研究会・日本地名研究所・日本ペンクラブ等の各会員。
     主な著書
       『風と火の古代史』  『鉄と俘囚の古代史—蝦夷「征伐」と別所《増補版》』(彩流社)
       『おばけと物語』(現代書館)  『東国の古代—産鉄族オオ氏の軌跡』(崙書房)
       『将門風土記』(たいまつ社)がある。

内容紹介
 律令国家の蝦夷“征伐”の真相に迫る。産鉄と密接に関わり、全国に主に「別所」地名として残る、蝦夷の移封地611ヵ所を現地調査によって析出。
 俘囚移配の目的は、主として彼らを製鉄をはじめとした金属工業生産に従事せしめる為であった、という説を実証するために、全国の別所地名の悉皆調査を試みたものである。
 地図と写真を付した膨大な記録を国別に編集した、別所研究の集大成にして画期的「地名事典」。地名索引、一覧付。

前書き
 本書は雑誌「月刊 状況と主体」誌(谷沢書房刊)に、一九八二年八月号から一九九六年八月号まで、一四年間一六五回にわたって連載した拙稿「蝦夷〝征伐〟の真相」の第二部にあたるものである。
 その第一部はすでに『鉄と俘囚の古代史』と題して一九八七年に彩流社より刊行された(増補版は一九八九年に刊行)。
 執筆の目的は同書の「はじめに」の項で述べているのであるが、簡単にいえば「別所」という地名をもとにして、いわゆる「蝦夷〝征伐〟」といわれる古代律令国家の東北侵略の真相を明らかにしようとするものであった。
 それは故菊池山哉の「別所と俘囚」という論考で、全国二一五ヵ所の別所を挙げて、そこが蝦夷〝征伐〟によって生まれた俘囚(捕虜)の移配地である、という見解に接したことに始まる。
 私はその菊池説を検証すると共に、ではなぜ別所といわれる所に俘囚が移配されたのか、そこはどういう歴史的・地理的環境の土地であるのかを解明することによって、俘囚移配の目的が明らかになり、ひいては律令国家の蝦夷〝征伐〟の真相にも迫ることができるのではないかと考えたのである。
 その答えは第一部、即ち『鉄と俘囚の古代史』で出したつもりである。
 ところで第二部というのは第一部で出した仮説、即ち俘囚移配の目的は、主として彼らを製鉄をはじめとした金属工業生産に従事せしめる為であった、という説を実証するために、全国の別所地名の悉皆調査を試みたものである。
 菊池が挙げた二一五ヵ所の地名(主として大字地名である)はもちろん、小字やすでに消滅した別所地名までを含めて、文献資料ばかりでなく出来る限り現地調査を行ってその特徴を捉えようとするものであった(ちなみにその第二部は『鉄と俘囚の古代史』刊行時点ではまだ執筆継続中であった)。
 幸いなことに私の執筆とほぼ同時並行的に角川書店から『角川日本地名大辞典』(都道府県別)と、平凡社から『日本歴史地名大系』(都道府県別)が刊行され続けていた。
 特に『角川日本地名大辞典』の巻末には小字地名が網羅されており、そのお陰で小字地名の発掘は大幅に増大した。
 結果は菊池の挙げた二一五ヵ所を含めて五五七ヵ所の別所地名が検出できた(ここでは茨城県千代田町、奈良県御所市鴨神、京都府宮津市成相寺などのように、一大字の中にたくさんの小字別所がある場合は一別所と数えてある)。
 そのほか別所の可能性のある地名も六四ヵ所ばかり検出でき、「存疑」として載せた。すなわち本書で取り上げた別所は存疑を含めて総計六二一ヵ所である。そのうち五ヵ所は連載以後発見したものである。
 これら六二一ヵ所の別所は、本文で見られるように、別所そのものか、又はその周辺に多くの製鉄・鍛冶をはじめ、銅、水銀などの古代金属産業の痕跡が認められ、私の仮説は実証できたのではないかと考えている。
 菊池が別所を俘囚移配地と主張する根拠については前著ですでに紹介したが、最近前田速夫氏が『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(晶文社 二〇〇四年)という、菊池山哉の生涯とその学問の特異性を高く評価する好著を著した。
 そこには菊池の別所論の要領のいい紹介がなされているので、ここで引用させて戴く。
 
一 共通の名義と共通の特異性を有する別所村は、共通の成因を有する。
二 延喜式に百万束からの正税が計上せられ、普く各国に散在して居った俘囚村が、消えて無くなる筈がない。
三 延喜式所載の俘囚村(引用者註…俘囚料の誤り)の多寡は、別所村の数と大体に於いて合致する。
四 俘囚は早く編戸の民となったが、課役を科する勿れとか平民と同うせしむる勿れとかあるので、必ずや差別感のある村を生ずるわけ   であるが、近畿の別所村は明らかに差別されて居る。(1)
五 俘囚村は、其出入り制禁されたやうであるが、別所村に其名残りが残る。
六 近江以東の諸国に於て白山神を祀るものは、エタ族の長吏村か、奥州の俘囚長かに限られて居るのに、(2)別所村には白山神を鎮守とするものが往々にしてある。東光寺なる薬師本尊の寺院ある事、また同様である。
七 別所に慈覚大師建立の薬師堂が現存するが、夫れは俘囚静謐の宿祷によるもので、右寺院に対し源頼朝の所謂源家累代の祈願とは、源頼義義家の奥州俘囚征伐を指すものである。
八 俘囚で度し難いものは、愈々山奥へ追い込まれた様であるが、別所には農耕の民の住み得られない土地がある。
九 俘囚として当然陥るべき業体、諸芸人に近畿の別所村が従事して居った。
十 俘囚は其の管理上、各郷へ一ヵ所位づゝ配置されたかと推定さるゝに対し、別所村も古郷に一ヵ所づゝ存在する。

  引用者註
 (1)この点は私の調査によれば正確とはいえない。多くの別所は差別されていない。    
 (2)この点も正確ではない。白山神社はもっと広範囲に分布している。

 以上である。(なお文中、現在では不適切な表現があるが、歴史的文献の紹介なので許容して戴きたい。)
 もっともすべての別所が俘囚移配地である訳ではなく、菊池も前記論考で認めているように、寺院の別院としての別所があったことも事実である。

 本稿連載中の一九九一年、吉川弘文館から『国史大辞典』全一二巻が発刊された。
 その中で高木豊氏が別所の項で「寺域内の空閑地、領主のいない空閑地など未開発の地を占定し、そこに造成された宗教施設。占定した土地も開発され、それには地子・地利・官物・雑役・公事などの免除の特権が与えられ、それが別所在住者やその活動の経済基盤にもなった。
 その初見は十一世紀前半にさかのぼるが、中世後期になるとその造成もみられなくなるばかりでなく、別所の名も消えていく例が多く、末寺化していったと考えられる。
 したがって、別所の形成とその活動は中世前期の特徴の一つであった。
 比叡山延暦寺の黒谷別所や、高野山金剛峰寺の東別所などの大寺院の大別所ばかりでなく、地方諸地にも別所がみられる。
 別所には、特定寺院を離去した僧や、寺院の中心的事業から離れた僧が在住して、遁世・隠栖の場とした一方、聖も在住・寄住して、自行・化地の生活をしている。
 別所のなかに往生院を含むもの、あるいは別所と同様に考えられる往生院の呼称をもつものもあり、ともに僧俗の終焉の場でもあった。
 別所の宗教活動としては、迎講・不断念仏・法華八講・涅槃講、仁王講などがあり、別所周辺の人々はこの講会に結縁したり、忌日仏事を委託したりしていて、別所は在地の人々の教化・結縁の場であった。」と記した上で、さらに文献上から検出した八九ヵ所の別所を挙げている。
 これは現在の歴史学会の定説であろう。
 そしてこの八九ヵ所の別所(比定地未詳のものもある)は同説によく合うことは確かである。
 しかし菊池及び私が検出した六〇〇ヵ所以上におよぶ別所をすべてこの説で解釈することは到底不可能である。
 例えば菊池も述べるように多くの別所に共通する白山神社と薬師堂の存在、また東国の別所に多い東光寺の寺号、さらに慈覚大師円仁の伝承、またいくつかの別所にある坂上田村麻呂や報恩大師、あるいは僧延鎮の伝承などの共通性なども高木説では説明しきれない。
 さらに、多くの別所およびその周辺に存在する製鉄遺跡などの金工遺跡の存在、金属関連の地名や神社、伝説の存在などもとても偶然のものとは思われないのである。
 私は全国別所地名の存在、すなわち蝦夷の現住地である北東北には極端に少なく(岩手県には一ヵ所もない)、また平安時代初期にはまだ充分内国化していなかった九州南部の宮崎・鹿児島の両県にも全く存在しないという分布の特異性(日向国に俘囚が移配されたのは確かであるが、承和十四年〈八四七〉には俘囚料を減省した理由として「俘囚死に尽くし、存員少なきを以てなり」〈『類聚国史』〉とある。)等からみても菊池説はやはり妥当性をもつと考える。
 別所地名について多くの市町村史は、柳田国男説(荘園内に本所の承認を得て成立した新開墾地説)や本寺とは別に修行僧(聖)が移り住んだ所という、高木説的な説明を採用しているが、なかには菊池説を採用している郷土史もわずかながら存在する。
 すなわち東京都『町田市史』、千葉県『小見川の歴史』、富山県『氷見地名考』、京都府『天田郡の地名(序説)』、鳥取県『東伯町誌』、山口県『ふるさと小野田』、香川県『おおち夜話』、同『財田町誌』などである。
 「別所」の初出について一言述べておきたい。
 高木説によると別所の初見は十一世紀前半とされているが、『令義解』によると、七〇一年の大宝令「医疾令」に
 「女医取官戸婢十五以上。廿五以下。性識慧了者三十人。別所安置。〝謂。内薬司側。造別院安置也〟」云々とある。
 すなわち律令体制下の女医の養成は官戸婢の中から、十五歳以上二十五歳以下の、性識慧了者の者三十人を選んで別所で養成せよというのである。
 ここで問題は女医を別所で養成するということであるが、「令義解」は注釈を行い、「内薬司」の項では、「別所」ではなく「別院」と書かれているとする。
 その「内薬司」の部分は散逸して見当たらないのであるが、おそらくここは「別所」ではなく「別院」の間違いであろう。
 仮に「別所」であったとしても、医師の養成機関が官営の寺院で行われたところから見て、女医のそれは寺院の別院という意味での「別所」であることは間違いなく、地名としての「別所」の初出とはいえないようだ。
 また承和九年(八四二)に、いわゆる承和の変(応天門事件)に連座して大納言藤原愛発が京外に放逐されるが、愛発は「山城国久勢郡別墅」において翌承和一〇年(八四三)に薨じたと『続日本後紀』にある。
 吉田東伍の『大日本地名辞書』(以下『地名辞書』と略す)は「河田氏曰 藤原愛発別業址 御牧村旧藤和田若宮八幡宮社域其地なりと云」と紹介している。
 即ち現在の久御山町御牧の地がそれだという。
 もしこの「別墅」を「別所」とすれば、これが最も早い時期のものといえるだろう。
 しかし文意から推してこれは地名ではなく、いわゆる別荘(別宅)の意と思われるので、やはり「別所」地名の初出とはいえないようだ。
 同じ『地名辞書』には、承和元年(八三四)に死亡した桓武天皇の第七皇子明日香親王の墓が久世郡大久保村大久保(現宇治市大久保町)の東、旧旦椋社地後にあるとされ、その墓を「別所墓」というと書かれている。
 これが当時からそう呼ばれていたとすれば、別所の初出になるが、どうもそのような感じはしない。
 なぜその墓を「別所墓」というのかも不明である。
 また本文大和国の項(奈良県山辺郡都祁村針ヶ別所)でも触れるが、『日本の神々─神社と聖地」4によると、都祁村の甲岡神社は天延三年(九七五)に甲岡に寺が建てられ、「甲岡別所の観音寺」と称したことに始まるとされる。
 これを当初からの呼び名とすれば、別所の称号は十世紀後半にさかのぼるといえる。
 ちなみに菊池は『古写経綜鑒』にある康和四年(一一〇二)の奧跋「丹後国普甲山別所御房」の記録が「今のところ別所の初見です」としている。

 本書の章別編成は菊池山哉の「別所と俘囚」に敬意を表して同じ形態をとらせて戴いた。
 そのため東国や近畿の章は一般に用いられている国別編成とはやや異なっていることをあらかじめ申し上げておきたい。
 今回原稿を纏めるに当たって、雑誌連載原稿にあった誤りは可能な限り訂正し、また連載後に知り得た事項は書き加えるなり、追記の形で補わせて戴いた。
 なお本書は月刊雑誌の長い連載が元になっているため、引用資料等に重複がかなりある。
 また前半部分と後半部分ではその構成にやや一貫性が欠けた憾みがある。
 これも連載途中から上記『角川日本地名大辞典』や『日本歴史地名大系』などの資料が得られ、より詳細に記述することができるようになったゆえのことであるのでご容赦願いたい。
 また本書は前記『鉄と俘囚の古代史』と重複する部分(特に奥羽の別所)があるが、これは全国「別所」地名事典という性質上やむを得ないことなので、これもご許容戴きたいと思う。
 本文中掲載の写真には日付の入っているものがあるが、それは撮影時点の年月日を示すものである。
 また行政地名は執筆時点のものをそのまま使用している。二〇〇五〜〇六年度にいわゆる平成の大合併が行われ、行政地名がかなり変化した。そのため旧地名と現地名の対照一覧をつけたのでご利用願いたい。

  二〇〇六年八月



参考資料
『鉄と俘囚の古代史』  柴田弘武 1989
全国「別所」地名事典(上)』 柴田弘武 彩流社 2007

『日本古代の国家と農民』 法政大学出版局、1973
「古代豪族系図集覧」 東京堂出版 1993

ウキペディア 「俘囚」


初載2018-12-4



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